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渋沢栄一と養育院

   渋沢栄一はいくたの事業を手がけたが、社会福祉にも熱心で、その中核が養育院だった。養育院の医療部門は現在、東京都健康長寿医療センターに引き継がれている。
(板橋区立郷土資料館「渋沢栄一と高島秋帆」展より)
 

昭和50年ごろの養育院

 養育院は元々大塚に本部がありましたが、関東大震災で壊滅し、大正12年(1923)分院だった板橋に本部を移しました。      

江戸時代の老中松平定信は、窮民を救済するため積立金(七分積金)を創設し、それを運営する町会所を設けました。明治になり大久保一翁(知事)らが引き継ぎ、七分積金で運営費を賄い養育院がスタート。渋沢は明治71874)から関わり、事務管理から始めたが院長になり、明治44年(1911)に、定信が老中になった際に書いた誓い文を養育院の職員がコピーし、自身の解説をつけています。「七分積金のおかげで露頭に迷っていた貧しい人たちを助けることができた。定信の道徳心によるものであるから我々もそれを守っていきたい」と。この文は院長室にかけられていました。

 渋沢は明治維新でいろいろなところで戦争が起きて、家族を失ったり、仕事がなくなったりした人が増え、その人たちをまとめて更生させ社会に復帰できるシステムを作らないといけないと考えました。養育院は、当初、東京の管轄で議会には廃止論もありました。途中、渋沢を中心とした委任経営となり、寄付金や慈善活動で運営費をまかなうことがありました。

  

渋沢の書です。「順理則裕」。板橋区の東京都立北豊島工業高等学校の校長室に架けられていたもので外に出るのは今回が初めてです。この高校は、もともと北区滝野川にあり、立ち上げ時に渋沢が寄付をしています。

 画家長谷川利行は、「日本のゴッホ」と呼ばれアトリエを持たず転々としながら絵を描いていました。晩年三河島で野垂れているところを保護されて養育院に連れてこられた。養育院でしばらくいて、亡くなりました。昭和15年(1940)、49歳でした。養育院は亡くなった人の遺品は全部燃やします。


 ときわ台駅近く石神井川にかかる下頭橋脇の祠に架けてある扁額です。「子爵渋沢栄一」と彫ってあります。


              (取材2021年6月)
 
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