東洋思想の古典に通じ、人材の育成に尽力、政財界のリーダーたちを指導した安岡正篤(まさひろ)。安岡が開設し戦前から戦後にかけ広大な敷地を擁した埼玉県嵐山町の日本農士学校跡地に、安岡教学を受け継ぐ財団法人郷学(きょうがく)研修所・安岡正篤記念館が、落ち着いたたたずまいをみせている。安岡教学とはどのようなものか、郷学研修所の活動は。
安岡正篤 明治31年大阪に生まれる。若くして『王陽明研究』、『日本精神の研究』等の著作で世に知られる。大正末期、東京・小石川に「東洋思想研究所」を、次いで昭和2年「金雞学院」を創設。昭和6年、「日本農士学校」を埼玉県菅谷(現嵐山町)に開校、その狙いは、浮薄な都市文明を離れ、大地にしっかりと足を着けて東洋の古典・哲学を学び、己を修めて国家社会の為に真に役立つ“無名にして有力なる”人材の育成であった。戦後は「師友会」(後に「全国師友協会」に改称)に拠り、全国各地での教化活動に尽瘁、一燈照隅行を展開する。昭和45年「財団法人郷学研修所」を創設して、郷学の振興に努めるとともに、道を求める人や有縁の人に古聖先賢からの道を伝えることに尽力。政財界のリーダーの啓発・教化・指導に当たり、真正の指導者養成を目指す。昭和全期を通じて一世の師表、天下の木鐸と仰がれた。現在は著書・講演録も多く出版され、人間として、また国家としてのあるべき姿を求める人々に、深い感動と人生の指針を与えている。昭和58年12月逝去。(郷学研修所機関誌『郷学』、写真はホームページより)
金雞学院、日本農士学校からの伝統
―安岡正篤(まさひろ)さんとはどのような人だったのですか。
「戦前、戦後にかけ、主に東洋思想をベースに人々を啓蒙し、導かれた知の巨人です。若くして東洋思想研究で傑出。真に社会の役に立つ人材の育成に努めるとともに、政財界のリーダーの指導にあたり、昭和全期を通じて一世の師表と仰がれました」
-郷学研修所は安岡さんが設立したのですか。
「安岡先生は昭和2年に私塾である金雞(きんけい)学院を東京・小石川に、同6年に学院の一事業部門として日本農士学校をこの地に開校しました。それが前身です。郷学研修所は、昭和45年に財団法人として改めて発足したものです」
-「郷学」とはどのような意味ですか。
「『郷』とは、狭くは郷土、広く解釈すれば日本全土です。歴史を紐解けば平安時代の鎌倉、江戸期の薩摩にみられるように次代を担う人材は、爛熟した文化を持ち堕落した都から遠く離れた地域から輩出している、農村こそ健全なエネルギーを生産する所、というのが先生のお考えだった。東洋文化と郷土の歴史の勉強を通して先賢を掘り起こそう、というのが当研修所の目的です」
-「農士」とは?
「農業に従事してリーダーとなり、一方で武士道の精神を持った人と理解してくれればよいでしょう。農士を養成する目的で日本農士学校は設立されました」
23ヘクタールの広大な敷地
―農士学校は広大な敷地を擁していたそうですね。
「23ヘクタールありました。現在の当館のほか、畠山重忠の館跡、国立女性教育会館などがすべて含まれます」
―なぜ、この地に開かれたのですか。
「安岡先生は、純粋な青年たちを教育する場所としては、都会でなく山野の方がよいと考えました。各地を調査した結果、ここが鎌倉武士の鑑と謳われた畠山重忠という武将の館跡であることがわかり、青年を教育する場所としてまことにふさわしいと、ここに決めたそうです」
―農士学校はどのくらいの人数を受け入れていたのですか。
「1年制で、旧制中学を卒業した青年が、全寮制で学びます。年によって違いますが、ほぼ40~50名というところです」
―いつごろまであったのですか。
「昭和6年から戦後24年までです。その後3年間、日本農学校と名を変え、さらに27年から10年間は埼玉県立興農研修所として続きました。県立に変わりましたが、教育の内容は一貫して同じでした」
―一度県の施設になったのはどのような事情からですか。
「金雞学院は、昭和21年にGHQから金鶏学院は超国家主義団体とみなされ、安岡先生は公職追放、学院財産は没収されました。しかし、安岡先生が尽力して財産は国のものだが、教育は続けてよい権利を得ました。その後、24~5年に、国が没収した財産を払い下げることになり、先生が県知事と交渉し、県が肩代わりして土地の払い下げを受けました。そこで、県立の興農研修所に名を変えたわけです」
政財界リーダーの心の指導者
―安岡さんは、政財界の指導者に教えを説いたのですか。
「政治家に対しては、先生は具体的な政策は触れませんでした。古典に基づいて、心構えや文章上の表現を指導されていました。歴代総理の指南役と言われることもありますが、政治家として一番付き合いの長かったのは佐藤栄作元首相です。佐藤さんの国会における演説は20数回ありますが、草稿はすべて安岡先生が目を通されたそうです。財界人でも、平岩外四さん(元経団連会長)ら教えを受けた人が大勢います。精神的な指導者と言えるでしょう」
―「平成」の元号も安岡さんが考えたのですか。
「元号法という法律が昭和54年に成立し、政府はその段階で新元号の準備を秘密裏に始めました。その時、安岡先生ほか何人かの学者が案を政府に提出、結果として安岡先生の案が採用されたのです」
―安岡さんは健康についても語っていますか。
「直接健康法を述べた著書はありませんが、健康について触れた文は多くあります。先生は健康にも関心が深かったです」
―真向法を実践されていたと聞きましたが。
「先生は真向法を励行し、完璧にできました」
―代表的著作は。
「『東洋倫理概論』、『王陽明研究』、『東洋政治哲学』、『日本精神の研究』などでしょうか」
―ポピュラーなのは。
「『百朝集』がよく売れています。金雞学院で、終戦前後の緊迫した状況の中中国の古典を引いて毎朝15分か20分くらいの講義を開いていたのを記録、100話が選ばれています」
見直される安岡教学
―郷学研修所の代表者はどなたですか。
「安岡正泰理事長。安岡先生の次男です」
―研修所は会員制ですか。
「私どもは機関誌(季刊)を発行しており、会員向けに配布しています。会費も資金の一部ですが、それと、研修会館を企業を含めた一般向けにお貸しして、利用料収入を得て運営しています」
―研修所はどのような事業を開いていますか。
「東洋の古典と郷土文化に関する研究や講座を開設しています。毎月第2、第3土曜日に開いているほか、春と夏の年2回、宿泊研修も催しています。安岡先生の学問に惹かれて、勉強しようという意欲を持った方々が、全国から集まってこられます」
―記念館の内容は。
「安岡先生の生涯に関する資料、書、蔵書の展示の他、書斎、農士学校にあった図書館(恩賜文庫)も保存されています」
―安岡さんの教えの現代における意義は何でしょうか
「今、安岡教学の再評価が進んでいます。「いかに生きるべきか」、「どのような人間であるべきか」が先生の教えの基本です。ところが、現代の世の中の中心になっているのは経済、お金です。先生はご存命なら、現代の風潮に警鐘を鳴らしたと思います。世の混迷が深まり、満ち足りないものを先生の著作に求めている傾向にあると思います」
(本記事は、2016年6月の田中一三事務局長のインタビューに、「東上沿線物語」第2号=2007年6月に掲載された荒井桂副理事長兼所長と吉田宏成館長(当時)の取材記事を補足して構成しました)
コメント