義仲あるいは父義賢の家臣の末裔7氏が主宰 萩日吉神社(ときがわ町)
ときがわ町の萩日吉神社の前で、3年に1回、流鏑馬が開かれる。この流鏑馬は、ときがわの明覚郷の市川、荻窪、馬場氏、隣の小川町の大河郷の横川、伊藤、加藤、小林氏の7苗(家)が主宰する。この7苗は、近くの嵐山町で生まれた鎌倉武士、木曽義仲の家臣、あるいは大蔵合戦で敗れた義仲の父、源義賢の家臣を先祖とするとされている。流鏑馬は、鎌倉武士そのままの独自の様式で執り行われている。長期にわたり家系と儀式を受け継いできた7苗の1人、市川裕彦(やすひこ)さんにお話をうかがった。
明覚郷と大河郷から2頭の馬
―この流鏑馬は、萩日吉神社が行うのですか。
市川 萩日吉神社が行う流鏑馬ではなく、萩日吉神社の前で奉納される流鏑馬という言い方が正しいです。萩日吉神社の前の広場で行われ、流鏑馬保存会の会長は神社の宮司がつとめてはいますが、神社は直接関係はありません。
―7軒のお宅で行うということですね。
市川 主体は、明覚郷の市川、荻窪、馬場、大河郷の横川、伊藤、加藤、小林氏の7苗であり、神社でも町でもありません。馬は、明覚郷と大河郷と2頭出し、馬の乗り手もそれぞれの郷から出ます。埼玉県の無形文化財に指定をお願いした時に、萩日吉神社に努力していただきましたし、町にも支援はしていただいていますが。
大蔵合戦に参加した家臣7苗か
―7苗は木曽義仲の家臣の系譜なのですか。
市川 2つの説があります。町の資料には「木曽義仲の家臣7苗によって奉納されたことが始まりと伝えられています」とあり、通説は義仲の家臣であったというものです。ただ、我が家の系図で言うと、木曽義仲の家臣ではなく、義仲の父源義賢の家臣だったようです。1152年、今の嵐山町大蔵で源義賢は甥の源義平(悪源太義平、頼朝の異母兄)に討たれます。この時2歳であった子、駒王丸は木曽に逃れ、後に木曽義仲となります。この戦いの搦手に、我々7苗が参加し、敗れて後、こちら(明覚郷、大河郷)に土着したということになっています。ただ、記録は江戸時代に伝承や口伝をまとめた思われるもので、証明するものはありません。
―市川さんは、義賢の家来の方から何代目にあたるのですか。
市川 私は家系を15年間調べて、昨年「市川氏の研究」をまとめました。系図が正しいとすると、大蔵合戦に参加した初代覚義から数えて私が33代目です。
―大蔵合戦なら近くですが、義仲の家臣だったとしたらなぜここに移られたのでしょうか。
市川 それは、義仲が大蔵で生まれているから、その縁で近くに来たということでしょう。どの合戦で敗れてからかはわかりません。
独自の民俗型
―こちらの流鏑馬はいつから行われているのですか。
市川 天福元年(1233)に、7苗により奉納されたのがはじまりと伝えられています。江戸期の享保の改革で武芸の奨励があり、多くの流鏑馬はその頃始めています。しかし、こちらの流鏑馬は、大河郷(小川町)の4苗は、萩日吉神社に来るのに2つ山を越えて1時間半くらいかかります。参加者が離れているこのような形は、江戸時代より前に行っていたと考えられます。
流鏑馬の形も異なります。流鏑馬は、流派型と民俗型に大別できます。流派型は、小笠原流とか武田流とか型があり、華麗です。我々のは、民俗型で、その中でも中世の武士の様式を踏襲する独自のやり方です。
―こちらの流鏑馬は何のために始められたのでしょうか。
市川 「戦勝祈願」などうたっていますが、義仲の慰霊ということです。元々は近江の比叡山延暦寺の麓にある日吉山王宮の分霊をときがわに勧請し、慈光寺に山王宮を作って、そこで慰霊をやっていたようです。当時は流鏑馬ではなかったかもしれません。それをある時期に萩日吉神社に移したわけです。
―これだけの行事を長く続けていくのは大変ですね。
市川 以前は毎年やっていたのが、3年に1回になりました。特定の人しかできないので、それだけ大変ですが、今後も続けていきたいと思います。
―次はいつですか。
市川 明治までは11月だったようです。今は3年に1回、1月の第3日曜日、来年2017年の1月15日になります。
NHK大河ドラマで「義仲と巴御前」の可能性
―NHKの大河ドラマで木曽義仲が取り上げられる可能性がありそうです。
市川 嵐山町などが熱心に運動しています。「義仲と巴御前」ですね。ぜひ実現してほしい。「倶利伽羅峠の戦い」など映像にしたら最高です。
(取材2016年10月)
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