富士見市の資料館友の会ふるさと探訪部会と難波田城資料館主催による第36回ふるさと探訪「和光市の旧宿場と湧き水を巡る」が2022年5月14日開かれました。あいにくの雨でしたが、ご説明を聞きながら東京・板橋区成増から埼玉県和光市にかけての旧川越街道白子宿の史跡を歩きました。
川越街道
白子地区を通る川越街道には3本あります。一つは現在の国道254線、もう一つは、バイパスができる前に使われていた「旧道」と呼ばれる現県道109号線。そして江戸時代の川越街道です。
江戸時代の川越街道は、他の道とは全く別のルートを通ります。成増駅から254線を埼玉方向に向かいしばらくすると左にそれる254バイパスと直進の旧道に分かれますが、それより手前で右にはずれ小高いところを通る幅の狭い道が江戸時代の川越街道です。新田坂→白子宿通り→大坂通りのルートです。
新田坂
街道が白子橋にかかる手前の新田(しんでん)坂の下には集落が発達し新田宿と呼ばれていたそうです。道ばたに周辺にあった石造物が集められて設置されています。道祖神は1862年建立。八坂神社は京都の八坂神社を勧請した社で天王様と呼ばれています。
白子橋
白子川にかかる白子橋は、白子宿の入口にあたります。白子川は練馬区大泉の井頭を源流とし新河岸川に注ぐ全長約10キロの川です。板橋区と和光市の境はほぼ白子川の昔の流路です。清水かつらが近くに住んでいたことから、橋の欄干には童謡「靴が鳴る」の歌詞が取り付けてあります。
清水かつら記念碑
清水かつらは明治31年生まれ。関東大震災で母の実家のある新倉村(和光市新倉)に身を寄せ、その後白子村に移り住みました。昭和26年に亡くなるまでこの地で数々の童謡を作詞。代表作は「叱られて」、「雀の学校」、「みどりのそよ風」など。和光市では生誕100年の平成10年に白子川遊歩道に記念碑を設置、かつらを記念する日本の歌曲歌唱コンクールを開き、今年は8月20日に実施されます。
白子宿と川越街道
川越街道の宿場は上板橋宿、下練馬宿、埼玉に入り白子宿、膝折、大和田、大井の6つありました。白子宿は江戸に近い方から下宿、中宿、上宿と呼ばれ、それぞれ本陣が置かれました。約600mの街並みがあり、豊富な湧き水を利用した酒造が盛んでした。
旧白子村道路元標
道路元標は大正9年施行の旧道路法に基づき市町村に1カ所ずつ置かれました。ここは川越街道の道筋、村の中心、村役場の近くです。
地福寺
天台宗寺院で平安時代に尊恵(そんね)僧正が建立したといわれます。尊恵は慈光寺(ときがわ)に行く途中白子宿に立ち寄り急病になったが村人の看病で一命をとりとめました。夢枕に白衣童子がここに寺を建てるよう告げ、目覚めた時手に小さな地蔵菩薩像が握られていました。これが本尊の「枕がえしの地蔵」で、座像の地蔵菩薩の胎内に納められています。境内には、「お石神さま」と呼ばれる縄文時代の石棒があり、百日咳や小児喘息に効果があるとしてお参りする人が多くいました。
地福寺は関東百八地蔵霊場の7番。「白子」の地名は「白衣童子」からとったという説と、この地がかつて新羅郡だったためとの説がありますが、後者が有力といいます。
白子熊野神社
白子村の氏神さま。境内には富士塚や夫婦銀杏があります。社殿裏に湧水源があり、明治9年に政府による日本初の養魚場ができたという記録があるそうです。
神瀧山清龍寺不動院
清龍寺不動院は白子熊野神社と隣接し、江戸時代まで神社の別当寺でした。滝行を行う池(現在は閉鎖中)や第二次大戦後富士山の溶岩を運んで造った洞窟霊場(開運洞窟)があります。
富澤湧水
崖の湧き水で、かつては毎分200リットル湧き、農家が野菜の洗い場に使い、各家庭やお店に配管もされていました。最近は湧出量が減っています。富澤さんという家が地主です。
大坂ふれあいの森
白子宿のはずれ、大坂通りの急坂には湧き水が多く(大坂湧水群)、林の一角が大坂ふれあいの森になっています。和光市が借地した市民緑地で、豊かな自然が残っています。それにしても、昔の川越街道には結構急な坂があったことがわかります。