朝霞市栄町の旧川越街道から栄町4丁目交差点を折れたところにジャズ喫茶「海」がある。昭和27年創業、店舗は建て替え、経営も2代目の小宮一祝さんに引き継がれたが、ジャズレコードを聞かせる形態はそのままで、わが国で現存する最古のジャズ喫茶という。
―この店はいつからここに。
小宮 昭和27年に、うちの父(小宮一晃さん、現在82歳)が開きました。その頃、この辺は「日本の上海」といわれ、そういう人たちが来て「朝霞は女で商売するところで音楽はいらない」と脅してきたんですが、親父は「冗談じゃない」とはねつけ、そのまま続けたそうです。始めたときは、お客はほとんどすべて米兵です。
朝から晩までジャズを聴く米兵
―現在ではかなり古いジャズの店ですね。
小宮 今はうちが全国で一番古いジャズ喫茶になっています。30年代から40年代にかけては学生相手にモダンジャズをかける店が多かったんですが、20年代は米軍相手の店だったんです。
―「海」とは。
小宮 親父が海軍出身なので「海」とつけたそうです。
―元々レコードを聞かせる店だったのですか。
小宮 レコードは米軍に頼んでアメリカから取り寄せた。うちに来るのは事務系の将校が多かったようですが、朝から晩まで、コーヒーやウイスキーを飲んでジャズのレコードを聴いていたらしい。ここは憩いの場だったのだと思います。
すぐ近くに、「フラミンゴ」や「USA」という米軍相手のクラブがあり、そこには江利チエミとか後に有名になる演奏家たちも出ていた。池袋からバスが通り、ダンサーたちもやってきた。クラブが終わった後にうちに来るお客もいたようです。
―ご自身も基地の記憶がありますか。
小宮 当時は「パンパン」と呼ばれた女性たちが大勢いたのを覚えています。独立記念日には基地が開放されるんですが、小学校2、3年の頃、初めて入ったときは、ホットドッグ、チーズをもらい、こんなうまいものがあるのか思いました。お正月やクリスマスには米兵がうちに来て、野球盤やバービー人形を持ってきてくれた。
ぼくが中学生のころはベトナム戦争で、次々とヘリコプターで負傷した兵士が運ばれてくる。死体も見ました。死体をきれいにし化粧をして、立川まで送るのがいいバイトといわれていました。子ども心にベトナム戦争が終わってほっとしましたね。
団塊の世代が新しいお客に
―その後基地が縮小されると、お客さんは減ったわけですね。
小宮 基地がなくなっても今の税務大学校のところにFENの放送局があって、そのアナウンサー連中がよく来ており、父は彼らと英語教室を開いたりしていました。
―一祝さんがお店をやるようになったのは。
小宮 私はスイミングのコーチをしていたんですが、親が年をとりましたので。店舗も建て替えました。
―最近の経営はどうですか。
小宮 今はジャズ喫茶の多くが閉じてしまいましたので、逆に希少価値が生まれています。テレビや雑誌も取材に来てくれますし。
団塊の世代の人たちが最近は増えていますね。うちのオーディオ装置やレコードに興味をもって、都内、千葉、茨城など遠くからも来てくれます。昔バンドをやっていた人も多い。
―レコードはどのくらいあるのですか。
小宮 4千枚くらいです。CD化されないレコードもかなりありますので。真空管装置も使います。
―最近はライブもあるんですか。
小宮 本格的には5、6年前から、中堅のミュージシャンを呼んで毎週末に開いています。お客さんは上は80代、下は高校生まで幅広い。ここ3年ぐらいは、朝霞高校のジャズ音楽部と一緒に、朝霞駅前広場で年3回コンサートを開いています。
(本記事は「東上沿線物語」第29号=2010年5・6月に掲載したものです)
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