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鶴ヶ島 開拓の歴史

  川越の北に位置する鶴ヶ島市は、開拓によって形成されてきた歴史を持つ。今は完全に市街化されている鶴ヶ島駅西口(鶴ケ丘)や若葉駅東口(富士見)は戦後復員軍人などにより開墾された。
(本記事は、鶴ヶ島市教育委員会生涯学習スポーツ課の蓜島康之さん、鶴ヶ島市富士見在住中山博昭さんのお話、「鶴ヶ島町史」通史編、「広報つるがしま」2005年8月号などを参考に作成しました)
鶴ヶ丘開拓に参加した今泉清詞さんインタビュー

高麗郡の一部

 鶴ヶ島市は、明治22年に14の村々が合併して鶴ヶ島村となった。江戸時代は、天領と川越藩領を行ったりきたりしていた地域。独自の文化や特産物が育っていないとされる。「鶴ヶ島」という地名は、脚折にあった島状の地にあった松に鶴が巣ごもったという伝説があったことでついたという。

とらえどころのない鶴ヶ島地域に一つ、歴史を貫く太い糸がある。開拓である。

 鶴ヶ島は、秩父山地や高麗丘陵を縁取る坂戸台地(入間台地の一部)に位置する。2本の小川が流れるが、それ以外の樹林や野原は水田には不適で多くは未耕作地として残されていた。歴史が下り、開拓と地域の発展が軌を一つにして進んだという面がある。

元々この地域は、716年東国の高句麗出身者が移住して置かれた高麗郡の一部であり、当時から開拓によって開かれたと考えられる。中世には、落武者が住み着いたとの伝承が市内にある。

享保年間の新田開発と川崎平右衛門

江戸時代初期には、小田原北条の遺臣など浪人たちの土着帰農を進めるため幕府は新田開発を奨励した。これらを土豪開発新田といい、地域では高倉地区から始まった。現在の「上新田」、「中新田」、「下新田」という地名は当時の開発に由来する。


「下新田」

享保年間、徳川吉宗、その下の大岡越前守は、関東の新田の開発を進めた。当初は、耕地は増えたが生産性は低く重い年貢で農民は窮地に陥った。そこで大岡越前守は、新田開発の世話役として川崎平右衛門をスカウトする。平右衛門は開墾中に手当を払うなど、農民が生きていくための仕方を指導、行き詰まっていた開拓が動き始める。その功績で「川崎大明神」として神様になった。今、市内に平右衛門の陣屋跡が史跡保存されている。


川崎平右衛門陣屋跡

鶴ヶ島は水田ができず、陸稲農法をとる。雨が降らないとコメができない。それで雨乞いが風習となり、有名な脚折雨乞い行事ができたと言われている。 

明治以降も、昭和初期には大不況に伴う農村不況打開のため、下新田地区の開墾が行われた。昭和10年代には戦時食糧増産体制で政府が開墾を促し、この時期鶴ヶ島は県下でも広い未開墾地を残しており、現在共栄と呼ばれる地域の開発が進められた。

戦後の開拓、外地から引き揚げ者の仕事の確保と食糧増産が目

 戦後は、主に復員軍人、外地から引き揚げ者の仕事の確保と食糧増産を目的に開拓が行われた。鶴ヶ島でその対象となったのは、富士見地区と鶴ケ丘地区である。

〇富士見

 現在の若葉駅の東、UR公団住宅や工業団地のあるところは、戦時中陸軍坂戸飛行場だった。跡地は総面積254町歩、国有未墾地として開墾の対象となった。引き揚げ者、戦災者、復員軍人、地元農家の次三男坊など97戸が入植した。

昭和21年から開墾を開始したが土は異常に硬く、赤土で地味も最低レベル。それでも落花生やスイカ、メロンなどの作物を栽培、ようやく生活の安定をみるようになった。しかし昭和30年代以降、宅地化の波が押し寄せ、多くの開拓民が離農した。


現在の若葉駅東口

〇鶴ケ丘

 戦後、県農地委員会で現在の鶴ヶ島市鶴ケ丘地区119町歩の買収が決定、昭和22年から開墾が実施された。引き揚げ者、復員軍人など34戸が入植した。この地域は赤松林の伐採跡地で、地味が悪く、イモ類、陸稲もとれなかった。肥づくりに努め、スイカを栽培したところ成功、さらにスイートメロンは特産品にまでなった。昭和40年頃からは酪農に専念したという。鶴ケ丘は現在は鶴ヶ島駅前の市街地に変貌している。


鶴ケ丘開拓地に建つ太陽光発電所(養命酒製造)
      坂戸飛行場跡開拓の思い出
   中山博昭さん
(鶴ヶ島市富士見) 
  
 鶴ヶ島市の富士見地区は、陸軍坂戸飛行場の跡地で戦後開拓されてできた町だ。開拓に参加した中山博昭さん(69)に思い出を語っていただいた。

 

中山さん

陸軍航空士官学校坂戸飛行場

―坂戸飛行場とは。

中山 陸軍航空士官学校坂戸飛行場です。後に特攻隊員になるような士官候補生のグライダーによる飛行訓練などに使っていました。

―いつできたのですか。

中山 昭和15年に建設開始しています。それまでの地主はたった3カ月で土地を供出させられ、鶴ヶ島の大塚野新田の住民は坂戸駅の南側(一天狗)に集団移転させられたそうです。

―飛行場の区域は。

中山 現在の東上線若葉駅東口の鶴ヶ島市富士見地区、若葉ウォークからUR若葉台団地、東は富士見工業団地先の道路あたりまで。それと坂戸市千代田地区で、女子栄養大学、北は坂戸市役所にかけて。約70万坪ありました。

 


坂戸飛行場跡(中山さん提供)

昭和21年3月から105戸が入植

―その跡地が開拓されたわけですか。

中山 戦後軍用地の開放ということで県の開拓課が線引きをし、開墾が始まりました。一番最初に入ったのは後口さんという方で 21年の3月17日。他のみなさんはその後約1年半の間に入った。その中には、東京大学学生が上野などで引き揚げ者支援をしていた「在外父兄救出学生同盟」が営む学生農場もありました。

―何所帯が。

中山 私は全部歩いて訪ね調べました。行政資料では82となっていますが、105世帯が実際です。1軒あたり家の敷地が250坪、開拓用地が1町4反5畝です。

―入植したのはどういう人たちですか。

中山 復員した軍人、満州からの引き揚げ者、近在の農家の次男坊三男坊など。陸軍の大佐や中佐だった方もいました。

―中山さんは、お父さんの代に入植されたのですか。

中山 私は昭和26年熊本生まれです。坂戸に越してきて、小学校の時、開拓農家に住み込みで働くことになりました。

―どういう関係のお宅だったのですか。

中山 開墾が手に負えなかったのでしょう。何の縁だったのでしょうか。その家から小学校、中学校と通いました。

 

硬い滑走路を掘る

―飛行場の開墾というのは大変そうです。

中山 私も掘りましたが、硬かったです。ツルハシです。滑走路が今の若葉ウォークから坂戸市役所に向け830mあった。グライダーなんかが飛んだのですが、グライダーは自重が軽くて1.8トンくらいで、16人乗り込んだ。それを引く軽爆撃機も一緒に走ったわけです。

―どのくらい手間がかかりましたか。

中山 私が自分で開墾した部分は360坪くらいですが、それでも5年かかりました。政府からの払い下げで炭化カルシウムをずいぶんぶちこみました。

―開拓農家は住宅はどうしていたのでしょう。

中山 最初は軍の払い下げのテントとか。最後まで家がなかった人は穴を掘って住んでいました。昭和34年から37年にかけて1戸あたり3000円の家をみなさん建てました。電気も昭和34年に一部に通り始めた。全員が使えるようになったのは昭和38年です。

―開墾した畑で作物は何を。

中山 練馬大根など荒れ地に強い作物ですが、私がここにお茶やサツマイモを導入したりしました。サツマイモは太白、まずかった 

―まだ中学生だった中山さんが作物を指導したのですか。

中山 昭和35年頃に東京教育大学の農場長が来て知り合いになり、その方から習いました。

 

東京オリンピックの後宅地化進む

―せっかく開墾した土地ですが、その後宅地化が進むわけですね。

中山 みなさん苦しいですから、ほとんど手放しました。昭和35年に区画整理事業が行われ、土地は3割減歩され、なお苦しくなりました。東京オリンピックの後、昭和40年には日本住宅公団と工業団地をセットにした開発計画が始まりました。

―現在も農地は残っているのですか。

中山 まだ農家をやっているのが石川さん麝島さんの2軒だけです。開拓民で生存されている方は3名ほどです。

―飛行場の名残りは何かありますか。

中山 軍標が2カ所残っています。


現在も残る軍標(基富士見の三芳さん宅)

大変だった開拓の経験

―開拓の期間が短かったということでしょうか。

中山 でも私にとっては長かった。私はここで開拓しながら高校まで通いました。 

―中山さんは小学校の時から開墾で働いたわけですね。

中山 はい。私はここから坂戸町まで毎日裸足で通いました。今整骨院に通っていますが、おたくの体は一体何をやっていたのかと言われます。

―経験を振り返っていかがですか。

中山 いやあ、もう2度としたくないです。だけどいろんな人の恩情は身にしみました。今でも覚えています。小学校の時、裸足で通ったのですが、その時先生が声をかけてくれた。その先生は、94か5歳になりますが、生きていらっしゃる。思い出すと涙が出ます。

 (取材2021年1月)