今は高層マンションが林立する所沢市の中心市街地、銀座通り沿いに、齊藤家の見世蔵が建つ。齊藤家は、16世紀半ばにこの地に居を構え、以来地域の名望家として、所沢の歴史とともに歩んできた。齊藤家は明治16年には明治天皇の行在所(あんざいしょ)として使われた。川越鉄道(今の西武新宿線)が開かれたのも齊藤家の尽力による。現在、齊藤家の店舗には、所沢中心市街地活性化施設である「野老澤町造商店」(ところさわまちづくりしょうてん)が置かれている。同施設の運営ボランティアで郷土史家の三上博史さんにお話をうかがった。
―「野老澤」とは。
三上 伝説では「伊勢物語」の在原業平がこの地に来た時、野老(ところ)という植物がたくさん生えていたので「ここは野老の沢か」と言ったとされています。文献で最初に「野老澤」が出てくるのは京都聖護院門跡の道興准后(どうこうじゅんご)が室町時代に著わした「廻国雑記」ですが、その後江戸時代にかけて使われていました。「野老澤町造商店」の名はそれにこだわって蘇らせたわけです。「野老澤」は「ところさわ」と読み、濁りません。
金山神社、神明神社を勧請
―「野老澤町造商店」は齊藤家の建物にあるわけですが、齊藤家はどのようなお宅なのですか。
三上 齊藤家の歴史は古く、川越夜戦(1546)で敗れた齊藤四郎右衛門利長が一族とともに野老澤に至り、それから10年後にこの地に居を定めたのに始まります。現在の齊藤家の近くに金山(かなやま)神社がありますが、同社は利長の長男の齊藤主計祐信弘が1557年に先祖の神霊が鎮座する奈良多武峯の談山神社を勧請し金山権現と称えたものです。一帯は現在金山町となっています。また、齊藤家文書によると所沢の神明神社も1556年に齊藤家が勧請したものです。
―16世紀の時代というのはどんな場所だったのでしょうか。
三上 当時はほとんど何もないところだったのではないでしょうか。野老澤村を開墾したのは北条氏邦の家臣で鉢形城を逃れ、現在のふじみ野市亀久保にいた三上山城守だったと言われています。私の家も遡れば亀久保の三上家につながるようです。
所沢が発展したのは江戸時代になってからです。江戸城ができた時秩父から江戸に抜ける道、江戸道が通じます。それまでの東山道・鎌倉街道という南北の道に加えて新たに東西の道が通り、交通の要衝として、3と8のつく日に市(三八市)が立った。周辺の農家が換金のために集まり村ができてきました。市を主催した商人たちは成長し、江戸道沿いには様々な商店が軒を連ねるようになりました。
齊藤家は木炭商で発展
―齊藤家も江戸時代になってから発展するのですね。
三上 齊藤家は江戸時代から近在で生産された炭を一手に扱い江戸の大名屋敷に納めていたのです。養蚕業をはじめ、今の新座市の黒目川に水車小屋まで持って小麦粉を生産し江戸に出荷していました。
―地域の名家だった。
三上 代々村長を務め、幕末期には勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の「三舟」とも付き合いがあり寄せ書きの掛け軸をはじめ勝海舟の書も多く残されています。現在の齊藤家の建物は江戸末期の建築です。
齊藤輿惣次(よそうじ)
―明治天皇が齊藤家に宿泊しているのですか。
三上 齊藤輿惣次(よそうじ)が当主の時、明治16年です。明治天皇は、飯能付近で行われた近衛諸隊演習の天覧のため行幸し、途中所沢で休泊されるにあたり、行在所として齊藤家が使われました。
―天皇が宿屋でない民家に泊まられるのは異例です。
三上 飯能まで行くのに馬車ですからどこかに泊まらないといけない。齊藤家は地域の役職を務め幕末の三舟とも付き合いのある豪商でしたので齊藤家が選ばれました。後に乃木将軍も泊まっています。
―飯能に天覧山という山があります。
三上 元々羅漢山という山でしたが、天皇陛下が上って演習を見たことから名付けられたものです。
現在の西武新宿線・国分寺線をひく
―明治以降現在まで齊藤家はどんな事業を。
三上 輿惣次さんは、明治13年に県から学務委員を任命され、15年からは町会議員として在職40年を超えています。地元の名望家として地域との関わりが深く、所沢の町の歴史はみな齊藤家に残っていると言ってもよいと思います。炭屋後食料品店になり、現在のご当主本人は会計事務所をやり、廃業後表が貸し店になっていたのを我々が拝借している。
鉄道をひいたのも輿惣次さんです。は、明治28年国分寺から川越まで開通しました(川越鉄道)。所沢は明治になり農家の副業として所沢絣という織物生産が盛んになり、その輸送のため鉄道をひこうということになりました。大株主はほとんど所沢の人で川越は反対しました。川越は新河岸川舟運に頼り、鉄道が来ると困るという理由で、反対の新聞広告まで出している。だから駅(本川越)も蔵の町のはずれにあるのです。
―齊藤家は文化財に指定されているのですか。
三上 建物はされていません。明治天皇行在所跡の部屋と勝海舟書の「求友館」扁額だけ。文書類は去年やっと文化財に指定されました。
「まちぞう(野老澤町造商店)」
―「まちぞう」とは。
三上 「まちぞう(野老澤町造商店)」は、かつては蔵の町だった所沢の中心市街地の古い建物を残し、地域を活性化するための市と商工会議所が借用している施設です。16年目に入りました。初めは井筒屋さんという糸屋さんだった建物にありましたが、その後齊藤家の店舗部分をお借りしています。店長は商工会議所から派遣された臨時社員、運営は我々ボランティアです。
―どのような活動を。
三上 店内は月一度町の歴史を絡めた展示や手作り教室、レコードコンサートらを開催、他にここを事務局としていろいろな町興しイベントをやっている。正月は所沢伝統工芸羽子板、熊手の展示、3月雛祭りと三八の市、5月タワー祭り、7月行灯廊、夏はジャズフェスティバル、12月はサンタを探せと、一年中イベントを開催しています。
タワーマンションは商家の跡
―三上さんは元々何をされていたのですか。
三上 元々はサラリーマンでファッション関係の仕事をしていました。私は今84歳ですが、23年前リタイアして、ちょうどパソコンが出始めた頃で、最初「博史の昭和青春グラフティ」と、自分史のように映画とかジャズとか紹介するサイトを作り、その中で所沢の歴史も面白いと思った。いろいろ勉強会に行き、資料も集めて、自分で「所沢ふるさと散歩」というサイトを立ち上げました。今はいろいろな町興しをやっています。
―地域に興味を持つようになったきっかけは。
三上 私が生まれ育ったのは、ファルマン交差点近くですが、ある勉強会でそこに2つの文化財があると聞いたんです。私が子供の頃遊んでいたところに文化財があるのかと思い、地域を詳しく知りたいと思うようになりました。
―銀座通りは今はタワーマンションが林立しています。
三上 全部商家の跡です。航空公園にあった米軍基地が返還になり、市役所、警察署、郵便局、など市の中心施設が全部向こうへ移ってしまった。西武、ダイエーがオープンし、駅前が商売の中心になってしまった。さらに車社会になり、通りの商店がどんどんさびれる。2、3代目は考え方も変わる。江戸時代からの中心の商店街がマンション街になってしまったのです。壊さなければ川越に負けないくらいの蔵の町でしたが。
―高層マンション群は異様な景色です。
三上 まったく予想もしなかった景色です。しかし今からどうしようもないので、それを逆手にとって、広場でイベントをやるとか仕掛けています。
所沢飛行場の歴史
―所沢飛行場の歴史もお詳しいようですね。
三上 明治44年(1911)日本で最初に飛んだアンリ・ファルマン機は、今航空発祥記念館にありますが、 町興しのためにも日本航空発祥の地所沢に何とか戻してほしいと私が働きかけました。昔所沢で飛んだ飛行機が西武車両工場が昭和13年に博物館になりそこに置いてあったが、戦後アメリカが持って帰った。その後日本に戻り、神田の交通博物館の天井にぶら下がっていた。博物館が大宮に移った際飛行機は関係ないと入間基地の倉庫に移る。2019年にフランスの航空教育団来日100周年のイベントがあり、私も市、国の実行委員を務めた。これを契機に各方面に協力を要請して、県をはじめ所沢市も予算もつけて航空自衛隊からお借りするということで飛行機が戻りました。
(取材2021年2月)
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