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東武東上線の歴史 路線の決定、延伸、支線・引き込み線の敷設、戦争・米軍進駐の影響、新駅・消えた駅など様々な出来事を経てきた

東武東上線は大正3年(1914)に開業、今年は110周年を迎える。開設に至るまでは路線の決定を含め紆余曲折があり、その後も延伸、支線・引き込み線の敷設、戦争・米軍進駐の影響、新駅・消えた駅など様々な出来事を経てきた。NPO法人あさか市民大学は「東武東上線の歴史」と題する講演会を開き、講師の郷土史研究家近藤光則さんは、関連資料を丹念に調べ、あまり知られていないドラマ、エピソード満載の東上線の歴史を語ってくれた。

(以下の記事は2023年12月12日、NPO法人あさか市民大学主催の市民企画講座「東武東上線の歴史」における郷土史研究家近藤光則さんのお話、配布資料を再構成して作成しました)

近藤光則さん
近藤光則さん

長岡まで全長300キロの構想 明治44年東上鐵道(株)の創立

 東上線の歴史は、明治36年(1903)、東上鐵道仮免許申請書が逓信大臣に提出されたのに始まります。発起人は惣代の千家尊福(東京府知事、出雲大社宮司の家系)、上野傳五右衛門(豊島区神練馬村の富農・村長)、内田三左衛門(川越の豪商出身で板橋区蓮根で醤油醸造業)、星野仙蔵(福岡村の河岸問屋)ら。明治41年に仮免許取得。当初の計画は、豊島区巣鴨から川越・高崎・渋川に達する約119㌔、さらに第2期で渋川から新潟県長岡まで延長する全長300㌔の構想でした。しかし資金調達が進まなかったことなどから、明治43年、発起人一同は東上鐵道を東武鉄道の根津嘉一郎社長に譲渡することを決定、翌明治44年(1911)東上鐵道株式会社の創立総会が開かれました(大正9年東武鉄道と合併)。

大和田(新座)がルートからはずされる

 東上鐵道は当初、成増~白子(和光市)~膝折(朝霞市)~大和田(新座市)~竹間沢(三芳町)~川越と向かう予定でした。しかし、ルート変更で大和田ははずされ、志木を通過することになりました。これには、志木の新河岸川舟運の船問屋が時代の変遷を感じ鉄道に期待したことがありました。引又河岸の廻船問屋である井下田慶十郎は私財を投じて志木通過の運動に全力を傾けました。明治44年の総会で志木通過への変更が認可されました。黙っていられないのが大和田市民です。実はそれ以前に毛武鉄道(計画頓挫)も当初川越街道を通る予定が志木通過に変更されたという歴史がありました。大和田にとって2度目の屈辱で、強く抗議し東上鉄道の経由地を大和田に戻すよう働きかけましたが、成りませんでした。

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大正3年 池袋~田面沢間開通

 大正2年(1913)、池袋~下板橋~成増~膝折~志木~鶴瀬~上福岡~川越西町~田面沢に至る第一期工事が着工され、大正3年(1914)5月1日開通しました。池袋~下板橋間、川越~田面沢間は軽便鉄道(簡便な規格の鉄路)でした。終点を田面沢としたのは、近くの入間川の砂利採取と狭山への延伸計画があったためです。大正4年に川越西町駅(現川越駅)が開設され、翌年川越~田面沢間は廃止。同年、川越~坂戸間が開通し、途中に的場駅(現霞ヶ関)が設置されました。当初は乗客より貨物の便が多く、野菜・雑貨・砂利・木材などの利用が主でした。

東上鐵道開業時の膝折停車場(朝霞駅)

膝折駅
昭和7年当時の膝折駅(朝霞市博物館第12回企画展「朝霞と鉄道」、埼玉県立文書館所蔵 行政文書 昭和2541-9 無断複製を禁ずる)

 大正3年東上鐵道開業時の朝霞駅は膝折停車場(ひざおりていしゃば)という駅名でした。当時の膝折地域は、雑木林とその周辺に農地と農家が点在する武蔵野の原風景が広がっていました。鉄道が開通するまでは、新河岸川・黒目川の舟運が物資の輸送を担っていました(江戸まで飛切船で片道12時間、並船で3~4日)。田無、保谷、清瀬、久留米方面から、農産物・竹細工・木材・炭などを荷車に積んで宮戸河岸、濱崎河岸、根岸河岸へ通い慣れた河岸街道を運んできました。鉄道開通後は、停車場から貨車により東京へと運ばれていきます。客車1~2両に貨車を連結して蒸気機関車が走ったといいます。停車場まで馬車で荷物を運ぶ運送店は旧河岸問屋が出店するケースが多かったといいます。

ベビー・ロコ号
東上鐵道時代の機関車「ベビー・ロコ号」(板橋区城北交通公園、板橋区ホームページ)

下板橋駅に0キロポスト 内田三左衛門の功績讃える「東上鐵道記念碑」

 当初、東上線の起点は小石川区大塚辻町(現在の東京メトロ丸ノ内線大塚駅付近)を免許取得の地としたが、当時の東京市に阻まれ下板橋駅より開業した。そのため東上線の0キロポストは池袋駅でなく下板橋駅の構内にあります。

 下板橋駅と大山駅の間には金井窪駅が存在しました(昭和6年~)が、東京大空襲により昭和20年4月13日下板橋駅・金井窪駅は全焼しました。下板橋駅は再建されましたが、金井窪駅は再建されず、幻の駅となりました。

 下板橋駅構内の大山駅寄りフェンス内に「東上鐵道記念碑」が立っています。この碑は、私財を投じて東上鉄道を興す尽力をした内田三左衛門の功績に対し、東武鉄道社長根津嘉一郎が建立(大正8年)したといわれます。最初上板橋駅構内に建立されましたが、戦後池袋駅西口に移され、さらに昭和30年頃現在の下板橋駅に建立されました。

東上鐵道記念碑
東上鐵道記念碑
東上鐵道記念碑説明板

東武鉄道と合併、東武東上線時代に

大正9年(1920)東上鐵道と東武鉄道が合併、東上鉄道は東武東上線となりました。

大正12年10月、坂戸町~武州松山間が開通、11月には小川町に延伸。大正14年7月には小川町~寄居間が開通、秩父鉄道と連絡ができました。目標にしていた寄居~渋川間の延長計画は用地買収は進んでいましたが、大正13年免許失効となりました。

東上線寄居開業時の停車駅
東上線寄居開業時の停車駅(近藤さん講演資料)

越生鉄道

坂戸駅から分岐して越生町に至る約11.2キロの越生鉄道は昭和3年に会社設立、昭和7年に坂戸町~高麗川間が開業。目的は砂利運搬でした。昭和9年に全通、旅客営業を開始しました。昭和18年東武鉄道と合併、東武越生線となりました。

電化と複線化

東上線は電化が遅れていましたが、昭和4年(1929)池袋~川越間がやっと電化されました。この年から蒸気機関車が電車に変わり、蒸気機関車は主に貨物運送に使われ昭和34年まで運行しました。

 複線化は昭和10年に池袋~成増間、昭和12年に成増~志木間が竣工。戦時中は工事が中断され、志木~川越間が完成したのは昭和29年のことでした。複々線化は和光市~志木間で昭和62年に完了しました。

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幻の西板線

 東武伊勢崎線の西新井駅から西新井大師前を経て上板橋駅まで約12キロを結ぶ西板線は大正13年免許を取得した。しかし関東大震災(大正12年)の復旧に手間取り、土地買収も進まなかった。昭和6年、西新井駅~大師前駅約1キロを開通にこぎ着けるが、残りの区間は工事塩基願いの申請も却下され免許の取り消しとなりました。

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東京ゴルフ倶楽部の移転と町名変更 幻の朝霞大仏

 大正2年、東京府駒沢村に日本人が造った初のゴルフ場「東京ゴルフ倶楽部」がオープンしました。土地借地料の高騰で移転を考え、昭和7年、膝折村に移転してきました。その際、ゴルフ場が「ヒザオリ」ではいかん、という話になり、当時のキャプテンで子爵の井上匡四郎氏は東京ゴルフ倶楽部の総裁であった朝香宮殿下に打診、宮様の「あさか」を使わせていただける許可を受けて「朝香」を「朝霞」と採用、膝折村村長は町名改称許可書を受領、昭和7年この地は「朝霞町」と制定、駅名も変わりました。

町名改称許可書(朝霞市博物館提供)

 朝霞ゴルフ場オープンの翌年、東武鉄道の根津嘉一郎社長は「根津公園」「根津パーク」などと呼ばれた大遊園地計画を発表しました。建設予定地は、朝霞ゴルフ場の隣(現武蔵大学地)で4万6000坪の土地を買収。大寺院、大仏(朝霞大仏)を建立する計画でした。大仏は大仏鋳造師高橋才次郎氏作、高さ14メートルで奈良の大仏より一回り小さかったといいます。昭和12年原型ができあがりましたが、同年日中戦争が始まり、金属供出の命を受けて供出、幻の朝霞大仏となりました。

絵葉書 梵鐘 「完成セル大梵鐘」(朝霞市博物館提供)

陸軍被服廠と引き込み線

被服廠は旧陸軍が被服品の製造・保管をする官営工場です。被服廠本廠は大震災後旧王子区赤羽にありましたが、日中戦争が激しくなり本廠だけでは生産が間に合わなくなり、新施設を朝霞に建設することが決定、昭和16年頃から操業が始まりました。現在の市役所南側、朝霞の森・青葉台公園・陸上競技場一帯です。昭和20年に支廠に昇格しました。

 被服廠の物資輸送のため、昭和15年東上線朝霞駅の少し手前から分岐するレールの敷設を開始、現在の郵便局敷地中央を通過、税務署を過ぎ城山通り手前までの軽便鉄道を建設しました(引き込み線)。

急ごしらえの飛行場の建設

 明治43年に所沢町に陸軍飛行試験場が開設され、のちに所沢陸軍飛行学校が設置されました。戦争の激化で、首都防衛のため東上沿線にも急ごしらえの飛行場が次々に開設されました。

松山飛行場:地元の人は「唐子飛行場」と呼んでいました。この飛行場を造るためには、東上線武蔵松山駅(現東松山駅)~武蔵嵐山駅間5.3キロを北に迂回させるルート変更が必要でした。そのままにすると飛行場の中を線路が走ることになるわけです。工事には地元の中学生もかり出され、昭和20年1月移設が終わりますが、同年8月終戦となり、飛行場は未完成に終わり、東武鉄道は多大な損失を受けました。

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坂戸飛行場:昭和15年、「陸軍航空士官学校坂戸飛行場」が開設されました。現在の坂戸市千代田地区と鶴ヶ島市富士見地区と川越市竹野地区にかけて、約70万坪、約1.5キロ四方の規模でした。基地としては使われないまま終戦となりました。

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鉢形航空廠:現在の寄居町大字三ケ山にありました。正式名は「東京陸軍航空本廠寄居出張所」で火薬・航空燃料などの製造、貯蔵施設でした。東上線男衾駅から左に分岐して3キロに及ぶ専用引き込み線がありました。現在のふじみ野市にあった「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」(火工廠)で製造された航空機用弾薬は上福岡駅から東上線の貨物として鉢形航空廠へ運ばれていきました。

成増飛行場:昭和17年4月の「ドゥリットル空襲」を機に帝都防空目的の飛行場建設が急がれました。成増飛行場は、陸軍飛行第47戦隊(かわせみ部隊)の常駐基地でした。開戦から終戦まで、中島飛行機二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」一筋で通したかわせみ部隊は、関東の防空の要となり、昭和20年1月9日B29に体当たり戦を行いました。6月には全戦隊が特攻に飛び立ちました。

成増飛行場(練馬区ホームページ)

 終戦により、成増飛行場は連合国軍に接収され、米陸空軍の家族住宅が建設されました。軍人・家族・物資輸送のため東武啓志(ケーシー)線啓志駅が設置されました。昭和22年~48年まで「グラントハイツ」、その後光が丘団地に生まれ変わりました。

練馬倉庫引き込み線、啓志線

昭和18年、現在の陸上自衛隊練馬駐屯地にあった陸軍第一造兵廠(東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫)まで上板橋駅からの引き込み線が開業しました。終戦後、GHQにより成増陸軍飛行場跡(後のグラントハイツ)までの延伸が命じられ、ここに啓志線が誕生、昭和21年に全線開通しました。昭和22年から23年にかけて、池袋から約30分間隔でグランドハイツ駅(旧啓志駅)までノンストップの駐留アメリカ軍専用列車が運転されました。昭和32年啓志線全線閉鎖、練馬倉庫駅・グラントハイツ駅も廃止となります。東武鉄道が啓志線を買収、旅客営業線として活用する計画があったが、断念しました。

米軍朝霞基地「キャンプドレイク」

終戦を迎え、朝霞にも米軍が進駐してきました。昭和20年9月、アメリカ軍第一騎兵師団、第43師団など約6千名が駐屯しました。接収された全体を「キャンプドレイク」と呼びます。比島マニラで戦死した第一騎兵師団大佐ロイス・A・ドレイクの名にちなみます。旧陸軍予科士官学校跡(現在の陸上自衛隊朝霞駐屯地)は「サウスキャンプ」、旧陸軍被服廠跡は「ノースキャンプ・リトルペンタゴン」。「リトルペンタゴン朝霞」はチェコ出身の建築家アントニン・レーモンドの設計で、急がされてやむなくキャンプ座間のリトルペンタゴンと同じ建物となったといいます。根津パークは演習場として使われました。

 ベトナム戦争時にはキャンプドレイクの第一騎兵師団は引き込み線を使って南ベトナムに向かいました。昭和46年、キャンプドレイクの東上線引き込み線が返還、48年日米安全保障協議委員会第14回会合にて各施設の返還が合意されました。

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昭和48年武蔵野線の開通

国鉄武蔵野線は昭和48年開通、北朝霞駅が開設されました。鶴見駅~府中本町間を貨物営業線、府中本町駅~西船橋駅間を旅客・貨物営業線として運行、貨物輸送のために開設した路線でした。山手貨物線を代替する東京外環貨物線として計画され、昭和2年の鉄道敷設法に組み込まれていましたが、戦争の影響で計画は凍結されていました。昭和27年に埼玉県が所沢~我孫子間の「玉葉線」を申請、昭和40年から工事が開始されました。昭和49年8月、東上線の朝霞台駅は開業しました。

武蔵野線北朝霞駅開駅式典(朝霞市博物館提供)
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