天台宗の僧侶であった南光坊天海(1536?~1643、慈眼大師)は、徳川家康の信頼を得て、家康・秀忠・家光の3代の政権にわたり、政治、宗教など諸分野の顧問役を務めた。天海はまた喜多院の住職であり、川越とも深い関わりがある。家康と天海に関係する資料を展示した「徳川家康と天海大僧正」展が、川越市立博物館で開かれている(12月3日まで)。主な展示品について、担当者にご説明いただいた。
<今回の展覧会開催について>
「今年は家康が亡くなって正確には401年になります。亡くなった翌年1617年に家康のご霊柩は久能山から日光山の東照宮まで移されますが、その間3月に川越に立ち寄っており、それから400年に当たります。天海僧正は喜多院の住職になっており、天海と川越はゆかりが深く、それで家康、天海、喜多院、仙波東照宮を紹介する特別展を開きました」
<天海僧正について>
「宗教のみならず政治を含め総合的に家康の相談役を務めました。300年近く続いた徳川幕府の基礎の確立に天海僧正の功績は大きかったと言ってよいと思います。前半生は明らかでありませんが、江戸時代初期に、北(喜多)院(当時は星野山無量寿寺)の住職になってから歴史の表に出るようになりました」
<慈眼大師縁起絵巻>
「天海僧正が亡くなった後にその生涯を記した一代記です。上巻には、天海が家康と駿府で会っている場面があります。他の資料によると慶長13年(1608)頃と推定されます」
<天海御請書>
「天海僧正は寛永20年に108歳で亡くなったと言われていますが、その2年前に家光にあてた書状です。この時、家光の嫡男の家綱はまだ生まれていないのですが、『私が祈願したから必ず男の子が生まれます。おめでとうございます』と。翌月に4代将軍家綱が生まれています」
<東照大権現像>
「天海は家康とは生前から付き合いがあったのですが、家康が亡くなった後に家康を『東照大権現』という神様としてまつるように主導しました。この肖像画は、生きた家康ではなく、東照大権現としての家康の姿を現したものです。天海が命じて作らせたもので、天海が自ら書(賛)を添えています」
<木造天海僧正坐像>
「喜多院の慈眼堂に安置されている天海僧正の木像です。底部には作られた年代と作者が書かれています。寛永20年の8月、亡くなる2ヶ月前に、江戸の仏師の式部卿という人が制作したことがわかります。慈眼堂の中は普段暗いので、はっきり見られるのはこういう機会しかないと思います」
<絵本着色職人尽絵>
「天海僧正は、喜多院の住職をしており、家康と大変親しかったこともあり、喜多院には様々な将軍家からの奉納品があります。これは、江戸時代初期の狩野吉信の作で、京都の職人を描いた有名な職人尽絵という作品です」
<関東天台宗法度写>
「喜多院は、当初は山号を星野山と名乗っていましたが、家康は喜多院を再興するように天海に命じました。喜多院は関東の天台宗寺院を統率する立場ということで、東叡山という山号を与えられます。その後、寛永時代に上野に寛永寺が作られたことにより、東叡山の山号は寛永寺に移り、喜多院は星野山に戻ることになります」
<東照宮扁額>
「仙波東照宮にある『東照大権現』の扁額で、江戸城の将軍家に伝わっている扁額とまったく同じ作り、書体をしています。後水尾上皇の揮毫とされています。仙波東照宮が幕府から大事にされていたことがわかります」
コメント