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高島秋帆 独自の高島流砲術(西洋流砲術)築く 「高島平」の地名残す

  高島秋帆(しゅうはん)は、鉄砲を撃つ方法、砲術の専門家で、独自の高島流砲術(西洋流砲術)を開発し、幕末期に活躍した。天保12年(1841)には、徳丸原(現在の高島平)で大規模な調練を披露した。その史実を踏まえ「高島平」の地名が生まれ、板橋地域にはいろいろな痕跡が残されている。秋帆は一時幕府に捕らわれ、岡部藩(現在の埼玉県深谷市)に幽閉されたことがあり、NHK大河ドラマ「青天を衝け」では幼い日の渋沢栄一と交流があった様が描かれた。

 板橋区は2020年11月に関連自治体・団体などによる渋沢栄一を顕彰する協定に加わり、それを記念して板橋区立郷土資料館で「渋沢栄一と高島秋帆」と題する展覧会が開かれた(2021年6月20日まで)。同館学芸員の細樅(ほそもみ)雄貴さんにご説明いただいた。

渋沢栄一と養育院はこちら

高島秋帆(板橋区立郷土資料館)

高島秋帆(板橋区立郷土資料館)

日本とオランダの技術を融合した砲術編み出す

高島秋帆は、高島流砲術という独自に開発した砲術の流派を確立した人です。さかのぼると種子島から鉄砲(火縄銃)が伝わり、戦国時代以降鉄砲が戦のあり方を変えましが、その鉄砲をうまく撃つための一連の方法が砲術です。

元々長崎生まれで、家の近くにオランダ商館があり、外国人との関わりの中から軍事技術を学びました(シーボルトから砲術技術を学んでいたとも言われています)。秋帆の父も日本の砲術を学んでおり、秋帆は日本と海外の技術を導入した新しい流派を編み出します。その頃外国の船が相次いで来航し、このままでは日本が危ないと危機意識が高まる中で、砲術が注目され、高島家も重用されます。

秋帆の肖像画(松月院所蔵)

秋帆の肖像画(松月院所蔵)

鎖国の時代で、外国人の服装はどんなか、この船はどこの国か判別するための国旗の見方など、雑誌が刊行されました。

天保12年(1841) 徳丸原調練

アヘン戦争で大国の清が英国に負け、秋帆はこのままでは日本も攻められる、海外の軍事技術を導入して海防強化の意見書を幕府に提出しました。これが幕府に認められ、高島流砲術のお披露目会(徳丸原調練)が180年前の天保12年(1841)開かれます。秋帆は長崎から江戸、さらにここ板橋へ赴きます。演習場は今の高島平周辺、だだっ広い田んぼでした。

調練の様子です。鉄砲は、オランダから輸入した銃も使われました。戦国時代からあったのは火縄銃ですが、オランダ製は火打石がついていて発火する。機構がまったく違います。

徳丸原調練で銃士が着ていた装備の再現。高島流砲術を受け継いでいる団体、西洋流火術鉄砲隊保存会提供。

徳丸原調練の際、本陣として利用したのが松月院(現在の板橋区赤塚にある曹洞宗寺院)。秋帆はお礼として脇差を渡したと言われています。高島家で現存している刀はこれだけのようです。

冤罪で幽閉される

演習の次の年、秋帆は幕府の町奉行であった鳥居耀蔵という人の計略で捕らえられます。弘化3年(1845)、渋沢栄一の故郷の岡部藩に追放(中追放)されます。

大河ドラマ「青天を衝け」の第1話、第3話で秋帆(玉木宏)が登場し、渋沢と接触したことになっています。渋沢は当時6歳で同じ場所にいたことは確かです。ドラマでは牢屋につながれている描写ですが、実際はそれなりに遇されていたようです。

秋帆が幽閉されている間も弟子たちによって高島流砲術は広められ、結果冤罪だったということで釈放されます。その後伊豆韮山代官の江川太郎左衛門という弟子の尽力もあり、秋帆は品川のお台場の築城に携わり、ペリーが来た時は開国論を持ち上げたり、幕府の講武所の砲術担当として雇われるなど、引き続き活躍します。

残念ながら、慶応2年(1866)、高島秋帆は亡くなります。

高島秋帆は砲術だけでなく芸術家の側面もありました。書の他茶道も嗜み砲弾型の茶釜を作らせています。沸かすと大砲が燃えているように見え、秋帆が喜んだとされています。

大正時代に顕彰

大正時代になり陸軍が日本の軍事技術発展の功労者として秋帆を持ち上げ、いろいろなところで顕彰されるようになります。大正7年(1918)には高島秋帆先生追遠法会という法会が催され、遺品を展示する展覧会も開きました。大正11年には徳丸原調練で本陣となった松月院、調練場(現在の新高島平駅近く)に顕彰碑が建てられました。顕彰碑建設には、軍関係者の他、渋沢栄一も資金を寄付しており、渋沢は竣工式にも呼ばれていたが都合により不参加となりました。

松月院にある碑

松月院にある碑

徳丸原の碑

徳丸原の碑

戦後 昭和40年頃、今の徳丸ケ原一帯を開発して団地を造成する際、新しい町名をつけることになりました。当初は「赤塚平」、「徳丸平」など町名がなかなか決まりませんでしたが、区の職員が記念碑に高島秋帆の名があることを取り上げて「高島平」を提案したら決まりました。高島平に所在する一部の小中学校、高校の校章は秋帆の家紋がモチーフとなり、幼稚園、小中学校、高校の開校記念日は調練の行われた59日で統一されています。

日本の軍の基礎を作った人

高島秋帆は江戸時代、幕末の人だが、現代においても高く評価され、地域にもいろいろなところに名残りが残っています。日本の軍の始まり、基礎を作った人とみなされています。幕末の開国を推進した老中阿部正弘は秋帆を軍事技術の開祖と評価しています。徳丸原調練には勝海舟が見に来ていて、明治に入って「陸軍歴史」の本を出しますが、高島のことについても書いています。

(取材2021年6月)

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