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源頼朝が再興した 坂東札所十番 巌殿山正法寺(東松山市)

東松山市岩殿のこども動物自然公園、大東文化大学の横を上がると、物見山の崖下に、巌殿山・正法寺(しょうぼうじ、巌殿観音)が大伽藍を構える。源頼朝が再興した由緒ある寺で、坂東巡礼三十三観音の十番札所に数えられる。江戸期から戦前にかけて、札所巡りでおおいににぎわい、今でも全国から信仰のあつい人が参拝に訪れる。中嶋栄住職にお話をうかがった。

頼朝が坂東三十三観音を開く

―札所とは。

中嶋 観音さまをまつる霊場を巡ることで、最初は平安時代に西国三十三カ所として、京都を中心に始まりました。それにならい、観音信仰があつかった源頼朝公が坂東(関東)に開いたのが坂東三十三カ所です。三十三は、観音さまが浄土から私たちを救うために33のお姿で現れたことに由来します。

―正法寺は、坂東札所十番にあたるわけですね。

中嶋 頼朝公が生まれた時乳母となったのが武蔵国比企郡の代官であった比企掃部充遠宗の奥さんの比企の尼です。比企の尼が頼朝公を育て、頼朝公はここにも来ている。頼朝公が鎌倉幕府を開く時に、支えたのが坂東の豪族で、このあたりの領主であった比企能員が御家人となります。頼朝公が坂東三十三カ所を開く際、正法寺も再建しました。頼朝公はここが十番、慈光寺(ときがわ町)が九番、十一番が安楽寺(吉見町)と、比企三山を札所にしたわけです。

―札所巡りが広がったのはいつ頃ですか。

中嶋 最初の頃は修行者や武士が信仰を支え、庶民に広がるのは江戸時代からです。目的は現生に生きている私たちの平安、それとなくなった先祖様のご供養とか。秩父三十三カ所もできて、西国、坂東と合わせると99。秩父を1カ所増やして、日本百番になりました。

観音堂の建つ石段上から参道、門前町をのぞむ 

観音堂の建つ石段上から参道、門前町をのぞむ

坂上田村麻呂の伝説

―寺の歴史を教えてください。

中嶋 逸海というお坊さんが奈良時代の養老2年(718年)に物見山の中腹にある岩窟に千手観音を奉安したのが始まりと伝えられています。逸海は修験道の役行者(えんのぎょうじゃ)の弟子にあたります。観音堂の裏の崖は、近辺にたくさんある古墳の石棺の材料として石を切り出した跡ではないかと考えられます。古墳時代に岩をくりぬいた場所に、逸海さんが寺を開かれたのではないかと。

―坂上田村麻呂の伝説があるのですか。

中嶋 伝説では、ここの山に悪龍が棲み、田畑を荒らし、人を襲っていました。たまたま奥州征伐で通りかかった田村麻呂に村人がお願いし、将軍はこの寺の観音堂におこもりした。夢の中で雪が降るとの観音様のお告げがあり、翌朝、一面の雪。旧暦の6月1日のことです。物見山の峠(雪見峠)から見渡すと1カ所だけ雪が溶けている所があり、そこに悪龍がいた。将軍は一人で山に入り、観音さまに祈り、弓を射り、悪龍を退治することができました。
悪龍退治で霊験が知られ、桓武天皇の命で諸堂を再建されたと伝えられています。悪龍は今で言う抵抗勢力であったと考えられます。その際、田村麻呂の家来の兵隊たちに農民が、麦わらを燃して暖をとり、糠で饅頭を作って差し上げた。今でもこの地方には、藁を燃やし尻をあぶり饅頭を作る(尻あぶり饅頭)と無病息災となるという風習が残っています。

運慶の作とされる仁王像

運慶の作とされる仁王像

―鎌倉時代に寺を再興したのは比企能員ということですか。

中嶋 比企尼の養子である比企能員は御家人として頼朝公を支えました。頼朝公がこの寺を再興し、その時中心となって働いたのが比企能員だったと考えられます。頼朝公が再興した時、60余坊の寺も再建されました。今、修験の寺が2カ寺残っています。

戦前までは巡礼、観光客でにぎわう

―札所としてのお寺はその後どうだったのですか。

中嶋 江戸時代は、家康公によって御朱印を与えられています。観音巡礼が盛んになり、当寺も繁栄したようです。明治になり札所巡りは下火になりましたが、昭和の初め頃にかけて住職となった忍海という方は経営能力が優れていました。東京まで行ってたくさんの講を作ったり、ここに温泉やユースホステルをも計画。門前は活気を取り戻しました。ここは昔、春はツツジ、秋は紅葉の名所で、近辺の学校の遠足というと、巌殿観音・物見山でした。境内にも茶店がたくさんあり、東松山中の芸者さんが春になるとここに来てしまうとか。しかし、にぎやかだったのは戦前までですね。

門前の各家には、古い屋号が掲示される

門前の各家には、古い屋号が掲示される

―今でも、札所巡りをされる方は多いのでは。


中嶋
 バブルの頃は観光バスが多かったです。今、御朱印ブームと言われていますが、こんな田舎までは若い女の子はそんなに来られません。信仰のあつい方はお参りされていますが。

―巡礼は写経をするものなのですか。

中嶋 本来は、納経と言って、写経をしてお寺に納めるものです。その証として印を押していたのが、今のやり方は写経をする方は少なく、スタンプ集めになっています。

―札所めぐりの意義は。

中嶋 スタンプ集めでも、お寺に来ることで、発心と言いますが、心をおこす入口になってくれればいいと思います。廻っているうちに、だんだんと信仰心につながってくると思います。

高野山のイメージ

―寺の宗派は真言宗ですか。

中嶋 最初は修験道の寺、その後天台宗系になり、それから真言宗に変わってきました。

―それでは、護摩を焚いて祈願をされるのですか。

中嶋 ここは基本的には祈願所で、観音堂は護摩をたきご祈祷、祈願をします。本堂は阿弥陀様をまつっており、滅罪と言って法事も営みます。

観音堂

観音堂

―これほどの地形が急峻で、景観のスケールのある寺は珍しいですね。

中嶋 あまりないと思います。高野山をイメージすると、金剛峯寺を中心にたくさんの寺が配置されています。ここも観音堂を中心に本坊、正法寺の塔頭が4カ寺あり、一山が寺院のかたまりであったと言えます。

青少年育成に熱心

―住職はおいくつですか。

中嶋 昭和29年生まれ、62歳です。

―このお寺で生まれたのですか。

中嶋 私は三男で、寺を継ぐつもりはなかったのです。高校2年の時、重い腎臓病で半年入院しました。同じ部屋にいる方が次々に亡くなっていくのを見て、自分は建築をやりたかったのですが、人間ははかない、坊さんになってもよいと思いました。退院してから父に得度させてくれと頼み、仏門に入りました。自分で志願したのですから修行も苦にならなかったです。

―青少年育成に熱心とお聞きしました。

中嶋 今は、1市3町の地区の保護司会長をしています。以前は、県の青少年育成県民会議の理事でもありました。

―どうしてそのような活動を。

中嶋 元々子供が好きなのです。東松山の小学校で、毎朝子供の見守りもやっています。一回り歩くと約10キロあります。子供たちが犯罪や事故に巻き込まれず、健全に育つよう、見守るのが私にできることかなと。

―ご自身にお子さんは。

中嶋 子供が5人います。ここはお檀家さんが少ないので、30代の頃、子供を幼稚園に入れるお金がなくて、夜中働きました。夜11時から朝8時まで働き、戻って朝ご飯食べてお寺の仕事をして、夕方ワゴン車の中でパッと寝ます。10時頃起きて、ご飯食べて、工場に行きました。

自転車で京都へ

―自転車で京都へ行かれる。

中嶋 本山の智積院まで、毎年、行っています。私のライフワークのようなものです。1回は歩いて行ったこともあります。最初はロードの自転車でしたが、腰を痛めて今はママチャリです。

―何日かかりますか。

中嶋 4日かかります。6月9日出発、12日に本山に着き、弘法大師様の生まれた15日に法要があります。

往時のにぎやかさを伝える峠の茶屋、日の出家記事はこちら

(取材 2017年4月)

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