石神井川は、板橋区を西から東に横断する。川幅はそれほど広くないが、歴史的に重要な役割を果たしてきた。台地部でのかんがい用水として役立ったほか、水車を動力源とし軍需工場が興り、板橋の産業発展の拠点となった。元都庁勤務で、現在板橋に住み、『水辺を訪ねて-板橋区の河川-』と題する著書もある久保田経三さん(NPOフォーラム自治研究理事)にお話をお聞きした。
-石神井川はどういう川ですか。
久保田 石神井川は、小金井市の小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし武蔵関公園の富士見池、石神井公園の三宝寺池と石神井池、豊島園池などの湧水が合わさり、西東京市、練馬区、板橋区、北区と流れ、京浜東北線 王子駅の下を抜けて北区堀船で隅田川に注ぐ、長さ25kmほどの川です。
流れが速く谷が深い
―この川の重要性は。
久保田 石神井川は、私からみて2つの特徴があります。第1は流れが速く、江戸時代から水車があり、明治以降動力を水車に求めて工場が立地、板橋にとって産業発達の拠点のような役割を果たしました。
第2は、台地をうるおしたことです。練馬、板橋の台地状の土地は水が足りませんので、石神井川は掘削された人工の川を含めてかんがい用水として使われました。
-確かに、石神井川は川筋が深く、流れが急です。
久保田 流れが速いから谷が削られたのです。特に板橋区加賀付近から王子にかけて谷が深く、蛇行した渓流となっている。この渓谷は「石神井渓谷」「滝野川渓谷」「音無渓谷」などとよばれていました。水車を設置するのに適していました。
-川沿いに水車を利用した工場ができたのですか。
久保田 現在の板橋区加賀地域には江戸時代に加賀藩の下屋敷がありました。21万坪の広大な土地でした。ここに明治9年政府が官営の火薬製造所を建設、昭和20年の終戦まで国内有数の火薬工場として稼働しました。これが元で、いろいろな軍需工場などが立地し、板橋を含む城北地区が工業地域に変貌していくわけです。
-火薬工場で水車が使われたのですか。
久保田 加賀藩の屋敷では水車は大砲鋳造に使われていたようです。火薬工場では水車は火薬製造機械の動力源になりました。石神井川が板橋の産業発展をもたらしたと言ってよいと思います。
「あげ堀」、「中用水」、「えんが堀」といったかんがい用水
-次にかんがい用として川が利用されたのはもっと上流部ですか。
久保田 加賀付近は谷が深く、水流が速いですが、上流に遡るほどに流れが緩やかになります。上流部はいわゆる武蔵野台地で昔から水が不足しており、石神井川の水が農業用のかんがい用水として使われてきました。板橋区内では、「あげ堀」、「中用水」、「えんが堀」といったかんがい用水がひかれました。
-今は農地はなく宅地化しているわけですが、それらの用水は残っているのですか。
久保田 すべて暗渠となっています。たとえば中用水は中板橋駅北側の屈曲部、向屋敷付近から水を引き、十条、赤羽方面を通り、隅田川に落ちていました。現在、名残としては智清寺という寺に中用水に架けられていた石橋が残されています。明治5年に板橋と上十条との間で水争いがあり、板橋農民が智清寺にたてこもるという事件もありました。
-石神井川は、地域にとって重要な川だということですね。
久保田 石神井川は経済的な重要性から一級河川に指定されています。石神井川の他、都内を東西に流れる神田川、目黒川は、東京ではわりと大きな川で、それぞれ重要な役割を果たしています。
(取材2021年8月)
久保田経三さんは2021年10月、『資本主義 これまでとこれから』(ブイツーソリューション)という本を出版されました。曲がり角にある資本主義の歴史と未来を問うという意欲的な内容です。
コメント