昔はどこの小学校にもあった二宮尊徳(金次郎)の銅像は今はほとんど見かけなくなった。多くの教科書からも記述が消え、尊徳はかげがうすくなっている。行田市に住む木村壮次さんは、尊徳は日本人のとるべき理想の生き方を体現しており、今の世でもっと知ってもらいたいと、勤めていた中央官庁を退職後、尊徳に関する本を著わした。木村さんが「素晴らしい日本人」とする尊徳、及び佐藤一斎についてお話をうかがった。
『日本には尊徳がいた:二宮尊徳の教え』、『超訳 報徳記』
―二宮尊徳に関する本を2冊出されたのですね。
木村 2011年に『日本には尊徳がいた:二宮尊徳の教え』(近代文芸社)、2017年に『超訳 報徳記』(致知出版社)という本を書きました。昨年になり、それぞれ22世紀アート社からオンデマンドの形で出版しました。
―どうして尊徳に注目されたのですか。
木村 僕はどちらかというと保守的な人間で日本が大好きです。私の主たる研究分野は経済ですが、外国の経済学には興味がなく日本的経済・経営を重視したいと思っていました。その中で、素晴らしい日本人、尊徳に出会いました。我々の時代には尊徳は忘れられかけていますが、尊徳をもっと知っていただきたいと思いました。
―それぞれ、どのような内容ですか。
木村 『日本には尊徳がいた』は、尊徳の思想と生き方をわかりやすく説明した入門書です。『超訳 報徳記』は、尊徳の高弟である相馬藩士富田高慶によって書かれた尊徳の伝記「報徳記」の主要部を私なりに現代語訳にして解釈を加えたものです。
至誠、勤労、分度、推譲
―尊徳の生き方から何が学べると言ったらよいですか。
木村 尊徳は江戸時代に一介の農民から身を起こし、多くの衰退した村や藩を復興させ、人々を善導しました。「報徳記」には、尊徳の事績が数多く挙げられています。尊徳が復興事業で掲げた改革の柱としては至誠(誠実にやりましょう)、勤労(一生懸命やりましょう)、分度(分を踏まえましょう)、推譲(譲り合いましょう)の4つがあります。
―具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか。
木村 単なる言葉だけの道徳哲学ではありません。たとえば、川崎屋孫右衛門の話は、尊徳の説く至誠がいかなるものかよく表れています。天保4年(1833)に始まった大飢饉では苦境に陥った人たちの一部が暴徒と化し、米屋を営んでいた孫右衛門の蔵も破壊されます。怒り狂った孫右衛門は役所に訴えますが、以前の飢饉にも米を高く売り大もうけしていたため牢獄に放り込まれます。さらに、火事で家が焼け、妻は幼子を残して病死するなど孫右衛門を不幸が襲います。孫右衛門の妹が案じその夫が尊徳に相談を持ちかけます。尊徳は最初「因果応報」として取り合わなかったが、頼み込むと、妹が牢獄の兄と同じように粗衣粗食で辛抱すること、持ち物すべてを売り生活再興をすることを言いました。妹の真心にほだされ改心が見られたことから出獄が許された孫右衛門ですが、家の再興はままならない。そんな孫右衛門に尊徳の助言は、「一番大事なことは自分を艱難において、他人の困苦を救うことだ。それには貧困救済のため余財をすべて町の人に差し出しなさい」と。要するに衷心からの徹底した行動を求めているのです。
分相応で、出過ぎたことはしない
―尊徳は「分度」という言葉をよく使います。
木村 分をわきまえましょうということ。具体的には、収入の中で生活していきましょうということです。
―ある意味で常識というか当たり前のことでもあります。
木村 まさに常識的なこと。分相応で、出過ぎたことはしない。農民も村も藩も分度を守る生き方をすることで生活、財政がいずれ豊かになる。しかし必ずしも守られていないのです。今の企業経営は、まず成長発展を目指そうと、資金もないのに投資に走る傾向がある。尊徳は「小を積んで大を為す」という教えもしばしば述べています。人間の生き方として、積み重ねが大事、コツコツやっていけば大につながる。これが日本的経営の原点ではないでしょうか。
尊徳の人間力
―尊徳が指導力を発揮し、尊敬を集めたのは、人間力というか個人的資質によるところが大きいのではないですか。
木村 やはり尊徳は二宮金次郎です。早くして両親を失うなど少年時代に大変な苦労をした。自分の家が流され田畑を復興するために学問が必要だと一生懸命勉強した。田畑を復興し買い戻し、さらに自分で開墾して広げ、それを貸して小作料を得たり、小田原の町に行ってモノを売ったり、さらにお金がたまったらそれを貸して利息を得る。経済的観念がすごく発達して、マルチな才能を発揮した。
―指導者の資質もあった。
木村 どんないいことを言っても、人がついてこなければダメ。荒れた土地を開墾しするのに自分も汗を流さなければいけないが、人も雇う。その時ただ金を渡すのではなく人を見ていた。ある時、尊徳のところに年老いた老人が開墾の仕事に来ていた。老人は力仕事はできないので、根っ子を取ることだけ一生懸命やった。周りの人からは仕事をしていないように見えたが、尊徳はその老人を評価しほめたたえた。根っ子掘りは開墾で大事な仕事。他の人は尊徳がいない時はさぼっている。老人は目立たないが、こつこつと続けた。要するに人を見る目がある。そういうことが伝わって、尊徳はすごい人だという評判が広がった。哲学的な話からではなく、まず実践から入る。
相馬藩主が範士富田高慶の書き上げた「報徳記」を明治天皇に献上
―昔は二宮金次郎の話は教科書にも載り、広く読まれていました。
木村 「報徳記」が読まれ出したのは明治になってからです。相馬藩主の相馬充胤が範士富田高慶の書き上げた「報徳記」を明治天皇に献上しました。天皇は日本が新たな船出を迎えるのに必要な書であると判断、全国の知事に読むように指示、一般の人々にも広まりました。渋沢栄一を始め尊徳の考え方は多くの人物に影響を与えました。
―今の時代は二宮尊徳の話はあまり出てこなくなりました。
木村 抹殺されたのは戦後です。道徳教育反対ということから金次郎的生き方は否定されました。二宮金次郎のことを知らない人がほとんどになっている。それはもったいない。僕が一番伝えたいのは、日本には尊徳という人がいたということです。
『甦る「言志四録」―川上先生訳で読む』
―尊徳の後、佐藤一斎に関する本も書かれたのですか。
木村 2023年12月に、『甦る「言志四録」―川上先生訳で読む』(22世紀アート社、オンデマンド)という本を出しました。
―どうして佐藤一斎を。
木村 最初に『日本には尊徳がいた』を書いた時、読者から手紙が来たのです。「日本には佐藤一斎がいたことも広めてほしい」と。
佐藤一斎は江戸末期の儒学者で、70歳で昌平坂学問所の儒官『言志四録』を残す
―どういう人なのですか。
木村 佐藤一斎(1772-1859)は江戸末期の儒学者で、70歳で昌平坂学問所の儒官、今なら東大の学長になり、『言志四録』という書を残しています。一斎が67歳から78歳にかけて、人間としての学び、生き方を書き記した人生の書です。幕末から維新にかけて坂本龍馬、佐久間象山、勝海舟、橋本左内などいろいろな人物が直接、間接に佐藤一斎の指導を受けました。
―「川上先生」とは。
木村 川上正光先生は戦後入手が困難になっていた『言志四録』を世に出しました。『言志四録』は膨大な語録ですので、私は川上先生の解説(付記)のある条を中心に選び、テーマ別に読みやすい形で編集しました。
―佐藤一斎から何が学べると言ったらよいですか。
木村 たとえば、「自分で自分をあざむかない。これを天に事(つか)うというのだ(「言志耋録」106)」、「過去の非を後悔する人はあるが、現在していることの非を改める人は少ない(「言志録」43)」など、随所に人生の指針となる言葉があります。修養、人生の心得として、日本人にとってかけがえのない人だと思います。
あまり知られていないけど知っておいてほしい日本人
―木村さんは、元々経済企画庁(現内閣府)におられた。このような人物論に取り組まれたのはその後ですか。
木村 私は56歳で役所を退官し、その後大学に(東洋学園大学)移りました。そこで、日本人としてはこの二人はあまり知られていないけど知っておいてほしいなという気持ちで、一つのテーマにしました。
―これがライフワークと。
木村 おおげさに言えば、ですね。今次ぎに何をやるか自分でも悩んでいます。自分はやることやっちゃったなと。
―気の探求をされている。
木村 西野流呼吸法です。健康のために続けてきました。そのおかげかどうか、80歳になりますが病気はしませんでした。
(取材2024年5月)