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秩父鉄道が開いた 秩父鑛物植物標本陳列所に始まる 埼玉県立自然の博物館

紅葉の名所、長瀞の「月の石もみじ公園」の向かい側にある「埼玉県立自然の博物館」。なぜこのような場所に県立の博物館が。「自然」とは何か。ちょっと疑問も生まれる。実はこの博物館は100年前鉱物と植物の標本陳列所として始まった。秩父は地質構造の調査・研究に適し日本地質学発祥の地と言われる。そこに秩父鉄道が標本陳列所を開き、その後幾多の変遷を経て現在の県立博物館の形になった。その間、神保小虎帝国大学教授をはじめ熱意ある研究者と、秩父鉄道の多大な貢献があった。アマチュア鉱物研究者で有名な長島乙吉も関わっている。同博物館で「自然の博物館100年の軌跡」と題する特別展(令和4年2月27日まで)が開かれており、主任学芸員の井上素子さんにご説明いただいた。

埼玉県立自然の博物館

埼玉県立自然の博物館

今年は当館の前身である「秩父鑛物植物標本陳列所」の開設から100年、また昭和56年に全国初の県立自然史系総合博物館としてオープンしてから40年を迎え、これを機会に当館の歴史だけでなく、鉄道の延伸や産業の発展を含めた地域の歴史を紹介いたしました。

秩父は日本地質学の発祥の地

秩父地域は明治の初期に近代地質学の研究が始まった地ということで日本地質学発祥の地とされています。関東山地は広い関東平野のへりにありますが、日本列島の基盤の岩石を見ることができます。明治に近代地質学が導入されると日本列島の構造について実地調査をしようと多くの学者が関東山地を訪れました。

ドイツ人で日本地質学の生みの親と称される、東京大学の初代地質学教授のエドムント・ナウマンが最初に関東山地を調査しました。学生の卒業論文も関東山地を対象とした研究から始められました。ナウマンの最初の生徒の小藤文次郎は、後に東大の地質学の教授として長年勤め、日本地質学の父と称されています。小藤教授が調査したのが長瀞から鬼石にかけての「三波川帯」と呼ばれる結晶片岩が分布する地域です。この方のお弟子さんが大塚専一氏で秩父地域の地質構造を明らかにしました。

鉄道の延伸と地質巡検

明治10年代になると秩父地域も交通網が発達します。明治16年に日本鉄道(上野・熊谷間)が開通、同18年には本庄から秩父に至る新道が開削され、馬車道が整備されます。東京から秩父へのアクセスが格段に向上、明治26年帝国大学教授横山又次郎が「秩父巡検旅行日誌」を発表します。「ここへ行ってこういう地質を観察しましょう」という巡検案内です。こうして秩父は地質学の先駆的な成果を学べる場として脚光を浴びるようになります。

明治34年には上武鉄道(熊谷-寄居間)が開業(36年波久礼、44年金崎=皆野町まで延伸)。多くの研究者が秩父を訪れますが、キーパーソンが神保小虎帝国大学教授で、秩父地域の地質学巡検の立役者になります。巡検案内書や地質学の啓蒙普及に努め、地元有志を校外生として教育しました。

神保教授が国神小学校長の宮前治三郎に贈ったドイツ製の夫婦ビアジョッキ。神保氏がドイツから持ち帰ったもの。神保直筆の漢詩が記されている。神保教授は地元の人達と親交を深め、多い時は年数十回も秩父を訪れた。

また大正5年、盛岡高等農林学校2年生だった宮沢賢治も、長瀞・秩父地方を地質巡検で訪れています。

秩父鑛物植物標本陳列所の開設

上武鉄道は大正3年(1914)、秩父駅まで延伸させ、その後社名を秩父鉄道にします。当時宝登山駅(現長瀞駅)の駅長だった松崎銀平という方が、ご自身も地質に興味があり、神保教授とも親交があり、岩石や鉱物を集めていました。この方が、国神駅(今の上長瀞駅)駅の近くに小さな小屋を作り、自身が採集した化石や岩石を並べて一般公開しました。秩父鉄道は、鉱物収集家として有名な長島乙吉氏に秩父地域の鉱物の収集を委嘱し、長島氏は3年かけて標本を集めました。

長島乙吉氏はアマチュア鉱物研究者の草分けとされる方です。元々鉱物・宝石商の店員でしたが、そこから自身で鉱物標本店を開き、最終的には「鉱物同好会」を創設します。全国各地を精査して鉱物を採集し学界にも貢献しました。そのような方にお願いし標本を系統的に集めたことが大変意義のあることです。

 

長島乙吉採集標本

長島乙吉採集標本

大正11年(1922)、長瀞に遊園地計画が持ち上がります。秩父鉄道が本多静六博士に委嘱して運動場や学生でも気軽に泊まれる泊まれる施設を整備しました。その前後に元々あった標本室を建て替えて秩父鑛物植物標本陳列所ができたのではないかと考えられます。

長瀞遊園地の図

長瀞遊園地の図

秩父鑛物植物標本陳列所

秩父鑛物植物標本陳列所

養浩亭と渋沢栄一

長瀞遊園地は今で言うスポーツ公園のようなものでした。かつての運動場は現在災害用のヘリポートになっています。テニスコートがあったのは博物館の敷地です。標本陳列所は現在の旅館養浩亭のところにありました。「有隣倶楽部」という秩父鉄道の社員のための施設もありましたが、県立自然史博物館建設の際に宝登山神社参道に移築されました。

現在の養浩亭

現在の養浩亭

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現在博物館の向かいに建つ旅館養浩亭は、元々役目を終えた駅の待合室を移設した簡易休憩所で、その一角に松崎銀平さんがささやかな小屋を作っていました。この簡易休憩所を遊園地計画の一環として気軽に宿泊や食事のできる施設に作り替えましたが、ちょうどできあがった時に、渋沢栄一さんがセメント工場の予定地の最終的視察に来た帰りに長瀞に立ち寄られたため、命名と揮毫をしていただいたそうです。83日にいらっしゃったのですが、当時ご自身が83歳であったため、縁を感じたとのことです。書は現在深谷の渋沢栄一記念館に収蔵されています。

渋沢栄一の揮毫書

渋沢栄一の揮毫書

長瀞の観光地化

大正13年、長瀞が天然記念物に指定されます。これは結晶片岩という地下深くでできた岩石が露出しており学術的価値が高いこと、渓谷や岩畳の風光も明媚な風景との両面が評価されたものです。自然保護を目的とした天然記念物という考え方自体が、神保教授が率先して西洋から導入を推進したものです。しかし、長瀞が指定されたのは、神保教授が亡くなった直後でした。

天然記念物指定は、当時の人たちには観光の名所として受け入れられて各地に保勝会ができました。今で言う観光協会ですが、長瀞保勝会も船遊びのリーフレットを制作したり、船頭さんの小さな祭りだった「船玉まつり」を目玉になるお祭りにしたりして、観光地としての地位を高めていきました。

秩父自然科学博物館

戦前、戦中期の頃は標本陳列所は荒廃しましたが、戦後、東京文理科大学(現筑波大学)の藤本治義教授は秩父地域の学術的意義を認識しており、秩父鉄道に復興を依頼しました。そして総合学術調査を実施し、その成果を元に、昭和24年秩父自然科学博物館が開設されます。まだ博物館法さえできていない時にきちんと学術調査をしてつくられたことは意義があり、今から見ても理想的な博物館活動を行っていました。

現在国指定天然記念物に指定されている「謎の海獣」パレオパラドキシアの全身骨格化石は当館に2体あります。1つ目は自然科学博物館が閉館となる間際の時に発見されました。その後県の博物館になってからすぐに2体目が発見されます。このように古くから博物館があったおかげで貴重な標本が後生に受け継がれています。

パレオパラドキシア化石(博物館ホームページ)

パレオパラドキシア化石(博物館ホームページ)

前川國男が設計

モータリゼーションの進展もあり、秩父鉄道もかつてのような博物館活動を継続することが難しくなりました。その頃、県に自然系博物館の計画が持ち上がり、秩父自然科学博物館は閉館し、昭和56年その跡地に埼玉県立自然史博物館が開館しました(平成18年=2006年、県立自然の博物館に改称)。

県立自然史博物館は前川國男氏が設計しました。前川氏は世界的建築家ル・コルビジュに学び日本のモダニズム建築をリードした建築家です。県内では当館の他に「埼玉会館」、「歴史と民俗の博物館」の3つの建築物があります。前川建築は今注目をあびています。

(取材202111月)
埼玉県立自然の博物館ホームページ

 

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