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渋沢栄一と入間
繁田家との深いつながり
黒須銀行
設立、豊岡公会堂建設を支援

   渋沢栄一は今の深谷市出身だが、同じ県内の入間市とも深い関わりがある。特に、旧黒須村の繁田(はんだ)家とは親密で、若い時期には家業の藍商売の際立ち寄り、明治33年に繁田家が設立した黒須銀行の顧問に就き、大正12年にできた県内初の豊岡公会堂の建設でも繁田家出の町長を支援している。渋沢を主人公とするNHK大河ドラマ「青天を衝け」の放送が始まり、令和6年度発行の新一万円札の肖像画にも採用されたのを機に、入間市は「広報いるま」2021年2月号で「渋沢栄一といるま」という特集記事を掲載した。同記事を担当した企画部広報課の三浦久美子さんにお話をうかがった。

藍の商いで繁田家に立ち寄る

-渋沢栄一は若い頃、藍の商いで入間に来ていたということですか。

三浦 大河ドラマでやっているように栄一さんの家では藍玉を作って売る商売をしていて、長野とかよく行っていることが出てきますが、実は秩父やこの辺にも来ていました。栄一さん自身が豊岡公会堂の開堂式(1923)に祝辞を送った際に、自分が「6070年前に商売でこの辺に来たことがあって親しみを感じる」と言っています。

-こちらに来た際、繁田(はんだ)家に立ち寄っているのですか。


現在の繁田家長屋門

三浦 繁田家のおばあちゃんが、「お茶飲んで休んだんだって聞いていますよ」と言われています。言い伝えです。

-繁田家とはどんな家なのですか。

三浦 江戸時代から代々黒須村の名主役をしていた家です。農家ですが、醸造業、狭山茶製造業も営んでいました。明治になってから繁田満義さんが狭山茶を輸出する狭山会社を興したことで知られています。


繁田満義(写真提供 入間市博物館)

-繁田満義さんは渋沢栄一と同世代ですか。

三浦 ちょっと年下です。栄一さんが来た頃は二十歳前だったはずです。満義さんは栄一さんの先生である尾高淳忠さんから漢学を教わったこともあるらしいです。

渋沢平九郎の墓参り

-渋沢栄一はその後、渋沢平九郎の墓参りの際入間を訪れている。

三浦 渋沢平九郎さんは栄一さんの従弟で養子ですが、維新の際彰義隊・振武軍に参加、飯能戦争に敗れ、今の越生町で亡くなっています。明治32年(1899)栄一さんは越生に墓参りに行く時入間に立ち寄りました。その時は今の狭山市駅(当時は入間川駅)から人力車で来て繁田家に寄り、それから飯能の天覧山の戦争の跡を経て、越生に行ったということです。栄一さんは明治45年にも越生を訪れています。渋沢平九郎記事はこちら


明治45年に平九郎の墓参に訪れた渋沢栄一

繁田満義の黒須銀行設立

-その時に繁田満義さんが黒須銀行設立の話をした。

三浦 満義さんはちょうど地元の人たちと銀行を作ろうとしていたところだったので、栄一さんにその計画を相談したのです。

-渋沢栄一は黒須銀行の顧問になるわけですね。

三浦 銀行は翌年できて栄一さんは顧問になります。株主だったのではという話もありますが、記録がありません。栄一さんは500以上の会社設立に関わったとされていますが、必ずしも出資したわけではなく、ここも顧問といっても報酬もなかったのではないでしょうか。地方の小さい銀行の顧問に栄一さんがなってくれそうだというだけで、大きな信用になって、設立の後押しになったのではないかと考えられます。

-黒須銀行の頭取は。

三浦 発智(ほっち)庄平さん。満義さんの長男ですが、お母さんの実家に戻り発智家を継いだ方です。名門ゴルフ場、霞ヶ関カンツリー倶楽部の創設でも知られています。発智記事はこちら

道徳銀行

-「道徳銀行」とは。

三浦 黒須銀行は町の人たちから道徳銀行と呼ばれていました。なぜかというと、元々のできた経緯が、この銀行は普通の庶民が働いてお金が入ったら貯金する習慣をつけて生活を安定させ、それをお金が必要な人に貸して産業を盛んにするという考え方でできたのです。銀行をつくる時栄一さんが自分の主義である道徳経済合一と合うから名前は「道徳銀行」がよいと言ったという話があるのですがはっきりしません。

-渋沢栄一の書いた額があるのですね。

三浦 満義さんが栄一さんに頼んで書いてもらった「道徳銀行」の書が大正2年に黒須銀行に贈られ、現在は埼玉りそな銀行の応接室に掲げられています。

-黒須銀行はその後は。

三浦 黒須銀行は明治33年にできて、黒須の本店の他、川越、東松山、狭山に支店、所沢出張所を持っていました。大正11年に武州銀行と合併し、その後埼玉銀行、現在の埼玉りそな銀行につながります。

県内初の本格的公会堂、豊岡公会堂建設を支援

-豊岡公会堂とは。

三浦 満義さんの次男の繁田武平さんは豊岡町長を25年も務めた方ですが、公民教育のために大勢の人が集まる場所が必要だということで公会堂を作ることが念願でした。しかし、経費もかかり小さい町でなかなか賛成が得られなかった時に栄一さんに「自分の考えはこうだ。間違っているか」と聞いたら、「そんなことはない。率先してやるべきだ」と言ってくれて、千円の寄付を申し出、武平さんは意を強くして建設の決意を固めました。豊岡公会堂は大正12年に完成。今は建物は残っていませんが、当時としては浦和や川越にもない埼玉県初の大きな公会堂施設でした。


豊岡公会堂(写真提供 入間市博物館)

-粕谷義三とは。

三浦 粕谷義三さんは入間市から出ていた衆議院議員で、関東大震災が起きた大正12年に衆院議長を務めていました。大震災が起きてその復興のための大震災善後会の経済界側のとりまとめ役を栄一さんがあたり、国会議員のとりまとめ役の粕谷議長と二人で副会長になりました。粕谷さんの銅像が入間市民会館にあります。

黒須銀行本店建物の保存

-黒須銀行の本店の建物が残っているのですね。


旧黒須銀行本店

三浦 黒須銀行本店の建物は明治42年に建てられたもので、銀行の合併に伴い、昭和35年まで埼玉銀行豊岡支店として、その後郷土民芸館として使われていました。明治の地方銀行に特徴的な土蔵造りで、栄一さんが直接関わった銀行で現存している明治期の建物は全国で5カ所しかありません。

-保存活用が課題ですね。

三浦 使わなくなって25年くらいたち傷みが激しく、市の博物館が元の姿に戻すための計画と設計を市民や専門家の意見を聞きながら進めています。新しい1万円札が令和6年にできるので、6年度の工事完成を目指しているところです。

              (取材2021年3月)

 
 
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