国道16号線を川越から八王子方面に進み、入間市にさしかかるあたり、左手に外観が煉瓦の大きな洋館が見える。これは明治から昭和の初めにかけ、全国有数の製糸会社であった石川組製糸所が建てた迎賓館、「西洋館」である。当時の贅を尽くした建築、調度品が100年以上経過してもほぼそのまま残されている。2024年7月の公開日、コンシェルジュの南波正仁さんにご案内いただいた。
この建物は煉瓦造りに見えますが、実際は木造煉瓦化粧タイル貼りです。上棟した日が大正10年7月7日。2年後に関東大震災がありますが壊れたという記録はありません。
石川組製糸所の歴史
施主の石川幾太郎さんは石川組製糸所を明治26年に興しました。商売相手はアメリカのバイヤーでした。精一杯のゲストハウスとしてこれを造ったのです。
石川幾太郎はこのあたりの普通の農家の長子です。5男、3女。この辺は水田に適した土地が少ないので産物は輸出向けのお茶と生糸で、最初お茶を手がけますが、生糸に転じます。製糸業は、機械化、中小製糸業者の買収、一族による経営参加などで規模を拡大します。大正11年、横浜に生糸を売る業者の番付で西の関脇、日本で6番目に大きな製糸会社に成長します。東の横綱、大関は片倉製糸、郡是製糸(現グンゼ)でした。しかし石川組製糸所は、関東大震災で横浜の倉庫が被災、世界恐慌、化学繊維の普及に加え、 昭和9年に幾太郎さんが亡くなり、昭和12年会社は解散しました。
上棟札
これは上棟札(レプリカ)です。建物を修理した時にクローゼットで見つかりましたが、元々は天井裏に貼ってあったものです。日付、施主、設計者(室岡惣七)、棟梁(関根平蔵)、大工の名などが記してあり、一級資料です。
この建物は迎賓館ですので、それぞれの部屋は贅を尽くしている。床、壁、天井、照明器具などが見どころです。ロビーの照明などは一部壊れたが、それ以外は103年前のままです。
幾太郎の古希の祝に兄弟がプレゼントした本棚
ここは応接室です。置いてあるのは漢詩の書かれた本棚で、大正15年、幾太郎の古希の祝に兄弟がプレゼントしたものと考えられます。石川組は9つの工場を持ち、その責任者に兄弟や子どもをあてていた。お兄さんのおかげで石川家は繁栄しているんだということを感謝していたと思われます。
映画やドラマのロケに使用される
ここは客室です。西洋館は近年、映画・ドラマのロケ地としても使われます。
陸軍航空士官学校の校長、そして進駐軍将校の宿舎に
この建物は昭和12年に会社が解散した後、昭和16年から陸軍航空士官学校の校長の宿舎に使われました。昭和20年終戦後は、米軍ジョンソン基地の高級将校3家族が入居ました。空間を区切るのに壁を作ったり、名残りがあちこちに残っています。
2階に上がる階段
玄関ホールと2階に上がる階段は、ドラマなどの撮影で一番使われるところです。大きな窓、階段の装飾も宮大工関根平蔵の技が生きています。
<2階>
貴賓室
貴賓室は主客の宿泊所で西洋館でも最も豪華なつくりの部屋です。壁が絹を使った布団張りですが、劣化が進んでいます。照明には、石川家家紋 ささりんどうが見られます。
大広間のステンドグラス
大広間。コンサートやパーティに使われました。ステンドグラスは、四君子(梅=冬、蘭=春、竹=夏、菊=秋)を描いています。ただ、右端が四君子なら菊ですが、お茶の葉と実に見えます。幾太郎はお茶の事業も行っており、お茶ではないかと考えます。デザインは三崎彌三郎。100年たちたわんだり、位置が変わったりしていましたが、修理し正しい配置に戻しました。
大広間にはベランダがありましたが、米軍家族が台所に改修しました。
和室
和室。当時の西洋建築は和室があるものが多かった。進駐軍は畳をはずし板の間にし、床の間はクローゼットにしていました。昭和33年に返還され、石川家が畳に戻しました。欄間は流水紋、川越の名工野本義明の透かし彫りです。
女工愛史?
石川組製糸本店工場の模型です。女工さんは1200人くらい、工場全体では1500人くらいの人員規模でした。宿舎があり、講堂は教会の代わりもした。幾太郎の弟の和助がクリスチャンで、一度勘当されるのですが結局一族が全員入信します。経営も博愛的で、女工に読み書き算盤を習わせるなど、女工さんを大切にしていました。