ネット情報の氾濫もあり出版不況が吹き荒れ、地方出版社を取り巻く環境も厳しい。そうした中、さいたま市の(株)さきたま出版会は、埼玉県を基盤に40年以上も地道に本を作り続け、その数は1000点を超す。地域にこだわり、80歳を過ぎても、次々と新しい発見や視点をもたらす企画を打ち出す星野和央会長にお話をうかがった。
星野和央(ほしの・かずお) 昭和9年(1934)、北足立郡三室村(のち浦和市=現さいたま市と合併)生まれ。浦和中学校、浦和高等学校、明治大学卒、社会思想社入社。昭和49年、社会思想社退社、さきたま出版会設立。平成24年、さきたま出版会取締役会長。
三室が嫌だった
―星野さんはずっと浦和ですか。
星野 三室(現さいたま市緑区三室)で生まれて、育って、今も住んでいる。ずっと浦和っ子です。
―昭和49年にそれまで勤めていた出版社を退社し、さきたま出版会を設立されました。地域の良さを皆さんに知ってもらうことが動機だったと言ってよいですか。
星野 全然違います。好きだから知らしめたいとか、かっこいいものではなく、生まれたところも含めて浦和という地域が嫌だったのです。
―嫌というのは。
星野 私が生まれた三室は、北浦和駅から約4キロ入った場所です。浦和駅からは6キロ。南は、越谷県道、北西は岩槻街道が通り、北方の村境は見沼代用水に囲まれて、行き止まり。完全に閉ざされた地域なんです。
幸いにして、そこに氷川女體神社という素晴らしい神社があって、聖なる地域です。「御室」が三室の語源なんです。また、三室と浦和のど真ん中に、赤山街道というのが通っています。川口に赤山というところがあり、江戸時代は幕府に代わって軍事、政治的に治めた関東郡代の役所が置かれた。関東郡代は伊奈家。伊奈と川口を結ぶ街道が赤山街道で、情報量が豊かな面もあった。
三室地域はまったく袋状態で、閉鎖的で出入りが少ないから、田舎である一方で、貧しいかというと豊かで、独立的な文化を育んだ地域でもあった。私は浦和中学(現浦和高校)に行った時、とことんいじめられました。三室からは2、3年に1人が浦中に入るくらいでしたから、非常に田舎者扱いされ、なんでこんなところで自分は生まれたのかと思いました。しかし後でしっかり勉強していくと、こんな豊かでよいところはなかったのですが。
―浦和も嫌だったわけですか。
星野 もう一つは浦和という地域も嫌でした。私は若い頃、東京の大学に行き、仕事で社会思想社に入りましたが、全国を回ると、浦和はまったく知られていない。大阪に出張して、「どこから来た」。「浦和」と言うと、「高崎より遠いですね」。そのくらいの認識です。
そのころ週刊朝日に「日本再見」という全国の都市のルポルタージュ連載があったんです。執筆した人は、「くらしの手帖」の花森安治でした。それが浦和をこっぴどくけなして取り上げた。それを読むとたまらなくなるくらい。それで嫌で嫌で仕様がなかった。それが根本です。
須原屋さんの協力
―嫌な地域だけれども、その情報を伝える出版社を興したということは。
星野 私は、社会思想社で18年仕事をやり、最後は取締役編集部長で退職しました。とことんよい仕事をさせてもらった。それなのになぜか。一つは嫌だったから、見直したり、よいところを発見しようというのが一つありました。
それから、昭和49年当時、地方出版は信州とか九州、四国、東北などには重厚な出版社がありましたが、関東にはありませんでした。地方出版にとって埼玉や浦和は未開発地域でした。だから出せるものもあるのではないかと考えました。
―ゼロから出版社を立ち上げるのは大変ではなかったですか。
星野 大事なのは出版の流通形態です。当時トーハンや日販(日本出版販売)など取次店が絶対的な力を持っていました。小さな出版社が独立して取次店と取引するのは不可能に近かった。取次店と取引できなかったら本を出しても流通させることができない。私の場合、幸いにして、社会思想社時代お付き合いしていた書店さんが結構あり、特に浦和の須原屋さんが協力してくれました。「埼玉で本を出すが何とかならないか」と相談したら意気に感じた須原屋の高野嗣男前社長が、(昭和初期頃までは本来県の出版は須原屋がやっていたが)「あなたがやってくれたら、自分の社のつもりでバックアップします」と言ってくれました。
その後、出版が軌道に乗ってからは、トーハン、日販との取引も始まりましたが、立ち上げ期に須原屋さんのご協力は大きかったです。
『埼玉ふるさと散歩』の成功
―最初に出した本は。
星野 『埼玉ふるさと散歩=浦和市』。浦和に特化した本です。『埼玉ふるさと散歩』シリーズはその後も10数点出しています。
―売れたのですか。
星野 書店さんがしっかり支えてくれたこともありますが、私は地域で生活している中でいろいろな人脈ができていました。小学校、中学校のPTAの会長など9年間務め、最後は市のPTA連合会の会長、県の副会長にもなり、教育委員会関係のネットワークがいくらかありました。見ず知らずの男でなく地域の中でそれなりの信頼もあったんでしょう。『埼玉ふるさと散歩=浦和市』をやった時、15万世帯の自治会の責任者に自治会を通して本の申し込みをとれないかと依頼。本自体も、知事、市長や教育長の推薦文をもらっていますから、扱ってよいということになり、自治会を通して注文がとれました。地域の組織の協力が得られる形で、地域出版がスタートできたのは幸いでした。
―今は広く書店さんと取引を。
星野 大手取次も扱ってくれていますし、書店も県内150店とお付き合いがあります。かつては300店くらいありました。
生活者としての発想が大事
―89年から「さきたま文庫」シリーズも始められた。
星野 「さきたま文庫」は、創立15周年の記念企画でスタートしました。県内のお寺や神社を紹介。これまでに70点ほど出しています。
―これまで出版点数は合計でどのくらいになるのですか。
星野 1000点は超えているでしょう。
―企画にはすべて会長が関わっているのですか。
星野 おおむねそうでしょうね。
―本が面白いし、タイトルのつけ方もうまいと思います。
星野 自信はないですが。うちのスタッフにも言っていることですが、出版人にしても、一人の人間として地域、時代に生きているわけです。飲んだり、けんかしたり、女性を好きになったり、子供を育て、買い物に行く。当たり前の生活人であるわけ。要はその生活人としての存在をいかに大事にするかだと思います。自分の生活感覚でアンテナを立てて、テレビを観ても、人と話しても、自分で読んでも、ありとあらゆるものを受信する。受信するためには、好奇心がなければいけませんが、根底は地域に生きている生活者の発想が大事だと思っています。
もう一つは、人とのネットワークです。それなりに存在感のある人間が周辺にいると、そういう人としゃべる中で、それも本になるなと。だから人としゃべっている中で人から与えられた企画が相当あるわけです。半分以上はそうです。自分でアイデアを考え付くこともあるけどね。
『幻の武州八十八霊場』
―これはという企画をあげていただくと。
星野 全部そうです。一つ一つ物語があります。たとえば最近の例で言うと、『幻の武州八十八霊場』(2018年2月)。対象としては、埼玉西部、東上沿線のお寺を取り上げています。江戸の文化9年(1812年)、200年前に、今の越生の駅前にある法恩寺の住職が発起して、自分の地域の身近なところに四国八十八ヵ所霊場を代行させる仕組みを作った。こうした仕組みは、江戸時代には結構ありました。その一つが、武州八十八霊場。1番が法恩寺で最終が日高の高麗聖天院。参加する寺を募ってネットワークを作り、売り出した。ところが、はやってくると、幕府としては、人々が祈るより遊んでいると考えた。奢侈禁止令を出し、30~40年で禁止してしまう。場合によっては、小さなお堂は取り壊された。で、絶えちゃって、今日まで来ちゃった。
著者の大舘右喜先生は所沢在住の歴史の研究者ですが、県では著名な方。四国八十八ヵ所を廻って感動し、調べたら自分の身近にあったことを発見する。歴史家だから探ろうと巡り始めた。しっかりした寺もあれば、もうなくなっている寺もある。私はこの先生とお付き合いしていましたから、話の中で面白いね、その記録を本にしませんかと。先生は昭和8年生まれ、私は9年で同学年。80のじい様同士で一緒にやりましょうと。
やはり、この地域は東京から来て、ちょっと心を休めるにはよい場所なんです。本は評判がいいです。年寄りにも、最近は「歴女」ブームで若い人にもいい。
―これまでも「坂東三十三観音」や「秩父札所巡り」関係も出されていますね。
星野 坂東や秩父はすでに出していますし、『埼東八十八霊場巡り』(渡辺良夫著、1988)という本もあります。渡辺さんは久喜市の助役でした。
―やはり著者とのお付き合いから本が生まれることが多いわけですね。
星野 テーマがあって、誰がよいかと探すこともやりますが、先に人間と話をする中で、自分はこういうことをやっている、と聞き、興味あるテーマが見つかることがかなりあります。
今どういう時代なのかよくわからない
―地域出版はどこも環境が厳しいようです。
星野 うちだって明日はどうなるかわかりません。薄氷を踏んでいる状況です。
―40年以上地域出版に関わってきて、時代が変わったと感じることはないですか。
星野 あることはあります。今どういう時代なのかよくわからなくなっているのが実感ですね。
私のところは、最初は『埼玉ふるさと散歩=浦和市』と地域に特化した本でした。浦和は観光地でもなく、よそから遊びに来るところではない。そういう地域をあえて最初に出したことは、やはりその地域を大事にすることは地域を知ることから始まるということがあった。最初の頃は、住んでいる地域に目を向けるというとらえ方、同時に埼玉とはどんなところなのかを紹介するような本、この2つの各論と総論を柱に出したような気がします。これはこれなりによかった。
しかし、だんだんタネも切れてくるし、専門的な分野のものを取り上げて出していこうと。そういう中で1989年に「さきたま文庫」を初め、70冊ほど出している お寺や神社を紹介することで、地域の歴史を探る。参拝するのに役にも立つということでそれなりに成功している。もう一つ、著者をこのシリーズで発掘できた。お寺の住職や神社の宮司ではなく、その市町村の文化財担当とか地域で研究している人たち。しかもあまり本を書く機会がない。薄い本だが責任を持って書いてもらう。人材のネットワークが広がっていった。
ところが今はそれから30年くらいたって、そういう人たちはほとんど定年退職して、高齢化しており、時代も変化し、寂しさはある。
それでも最近は、シニアの人たちの読者はそれなりにしっかりしている。同時に歴女、若い女性がこういうものに興味を持ってきている、ということは言えます。
紙は、比較したり繰り返して確認できる
―インターネット媒体の影響はどうですか。
星野 紙の印刷をやめてインターネットに移る、底流はそういう状況です。しかし私自身は紙に印刷した形の印刷物はぜひ継続したい、提供していきたいと思っています。電子情報がいくら普及しても、電子情報で得る情報、知識と印刷物を通して得る知識は、その受け止め方が違うのではないか。
―どのように違いますか。
星野 電子情報は一過性。電子情報は機器を何台も置かないと見比べられない。紙は、比較して繰り返して確認できる。そういうとらえ方にふさわしいテーマは何かも我々はしっかり考えていかなければならない。電子情報は大事にするし、そこを通してPRするということはあるし、やっていますが、それがすべてかというとそうではないと思います。
―電子書籍は扱っているのですか。
星野 何冊か出してはいます。紙のものを電子化しているだけです。
石井桃子の会
―会長は社会的活動が多彩で、立ち上げたグループも多いそうですね。
星野 今関わっている団体は別表のようなところです。自分で立ち上げたというより、自分が提案した、皆との話し合いの中でやろうかというのはありますが。
主な対外活動
浦和北東ロータリークラブ
グループ92
さきたま文化研究会
さいたま市特別支援教育振興会
埼玉国際青年を育てる会
浦和郷土文化会
埼玉文化懇話会
埼玉県人会
浦和高校同窓会
三室歴史楽会
石井桃子の会
―地元出身の児童文学者、石井桃子顕彰の運動をされているのですか。
星野 3,4年前に、石井桃子の会を作りました。
―思いは。
星野 石井桃子を知っていますか。どこかで読んでいます。彼女は、児童文学者ですが、翻訳が多く、200タイトルを超している。著作は12、3冊。101歳で亡くなり、今年は亡くなって10年になる。「ノンちゃん雲に乗る」の著作や、「ピーターラビット」「クマのプーさん」などを翻訳。日本の子供は誰でも1冊以上は目に触れているくらいの児童文学者です。
そういう方が自分の身近なところの出身です。浦和の小学校、今の浦和一女、それから日本女子大を出て、文芸春秋、岩波書店に勤め、編集した児童文学全集はベストセラーになった。意外に知られていないのです。
―趣味は何ですか。
星野 しいていうと晩酌です。毎日、切らしたことはありません。日本酒です。「埼玉の酒」の本を作ろうと思っています。
埼玉のおすすめのスポットは。
星野 地元の三室にある氷川女體神社。見沼は、昔は沼でした。そのほとりにできた。埼玉の正倉院と呼ばれるくらい、文化財の宝庫です。
(取材 2018年6月)
さきたま出版会ホームページhttp://sakitama-s.com/
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