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相撲にサーカス、 ボクシング 興行と庶民の憩いの場 蓮馨寺 (れんけいじ、川越市)

  川越市蓮雀町の蓮馨寺(れんけいじ)は、かつては露店が立ち並び、相撲やサーカスの興行が繰り広げられる、川越の庶民の夢、楽しみごとの拠点だった。今も、観光客の集まる蔵の街一番街の入り口に位置し、24時間オープン、憩いの場であることは変わりない。毎月8日の呑龍デー(縁日)や、触った所が治ると言われる「おびんづる様」で、市民から親しまれている。

(以下の記事は、「東上沿線物語」第28号(2010年3・4月)掲載記事を一部修正、2021年9月のインタビューを加えて構成しました)

蓮馨寺ものがたり

(2009年10日20日、NPO法人武蔵観研主催の講演会における蓮馨寺住職粂原恒久=くめはら・こうきゅう=さんのお話です。写真は2021年時)

粂原住職

粂原住職

蓮馨寺は浄土宗に属するお寺です。浄土宗は全国に7200ヶ所ほど寺院を展開しており、京都の東山知恩院が「総本山」、関東では鎌倉・光明寺と東京芝・増上寺が「大本山」という形で教線を広げてきました。

浄土宗は、南無阿弥陀仏と発音する念仏を唱えて真善美の世界である浄土を目指してよりよく生きようとする宗派ですが、その教義は、あらゆる地球上の無量の命が我々一人ひとりに大きな力を降り注ぎ、生かしてくれているという感謝の気持ちが基本になっています。「南無阿弥陀仏」の「南無」は感謝とか帰依する、「阿弥陀」とは、計り知れない命という意味であり、これを阿弥陀仏という仏様の働きとして受け止める、いわば宇宙の原理原則にのっとった感謝と向上の宗派なんです。ですから、どの宗派とも仲良くでき、非常に穏やかです。

 宗祖は法然上人です。法然は鎌倉時代に庶民を檀家に持つ仏教を初めて開いた方で、「元祖法然上人」と呼びます。今よく使われる「元祖」とは元々法然のことだったんです。

大道寺駿河の守の母、蓮馨大姉

蓮馨寺は、徳川家康が天下を取る前にこの地(川越)に創建されていました。太田道灌の作った川越城に後北条の一派である大道寺(政繁)駿河の守が城将として入ってきました。駿河の守は浄土宗の檀家で、その母が出家して蓮馨大姉という尼さんになり、1549年に蓮馨寺を開きました。「蓮馨」とは極楽浄土の蓮の香りという意味です。墓地には蓮馨大姉の供養碑、板碑があります。

蓮馨大姉の墓

蓮馨大姉の墓

 創建に当たって、感譽存貞上人という方が初代の住職となりました。感譽存貞上人は非常に学徳の優れた方で、後に大本山増上寺の第十代法主となり、その後に将軍家の菩提寺、増上寺を中心に僧侶養成大学として十八檀林の制が家康の指示で設けられるとその内容を制定、蓮馨寺もその中に入りました。檀林は15歳で入山し、3年ごとに9部修学、27年間仏教全般を学ぶ。42歳で正式な坊さんになるわけです。

 感譽存貞上人は7~8ヶ所のお寺を作り、川越にある浄土宗の寺4カ所寺のうち3つが存貞上人の創建です。

初代感譽存貞上人の弟子であった源譽存応上人は、蓮馨寺の僧侶でしたが後に今のさいたま市与野の長伝寺に移り、学徳を積み、増上寺の12代目の法主になりました。増上寺は元々東京・平河町にありましたが、存応上人は家康がその人格を崇め、浄土宗の檀家であった家康は、江戸にも菩提寺を設けようと増上寺を代々続く江戸での菩提寺とし今の芝公園に移したということです。

 家康は、仏教宗派のもう一つの雄であった天台宗の天海僧正を宗教アドバイザーにしました。天台宗の本山は京都比叡山延暦寺ですが、東の菩提寺として江戸に東叡山・寛永寺を作り、江戸の権威としたためこの地にも将軍の墓を分祀、増上寺に埋葬された将軍は6人で、他の6人は寛永寺となりました。

存応上人が増上寺で法主在任中に、修行僧として入ってきたのが、呑龍上人でした。春日部の井上将監という武士の子で、家の前の円福寺という浄土宗の寺で読み書きを習ったところ住職に才能を見込まれ、やがて15歳で増上寺の学寮に入ることになりました。

子供を救った呑龍上人

家康は、自分の先祖を新田氏(源氏)だとして、太田(群馬)に先祖をおまつりする寺として大光院を開きました。増上寺の存応上人に相談して、呑龍上人が最初の住職になります。

当時の農家は不作の時は、食うや食わずで、子供を間引きしたり身売りしたりということがよくありました。呑龍上人は、それらの子供の頭をまるめて修行僧として登録し、勉学させ寺の領地のお米を食べさせて救った。呑龍上人のおかげで、一家の血統が途絶えないで済んだと、いまだに月一回米を奉納する習慣が農家などを中心に続いています。貧困家庭の子供さんも同様に救っていきました。また、幸福を呼ぶ祈願も功徳絶大だったと伝えられています。

呑龍上人像(蓮馨寺ホームページ)

呑龍上人像(蓮馨寺ホームページ)

 呑龍上人は増上寺や蓮馨寺において人々を救っていきました。蓮馨寺は呑龍上人を願いを叶える仏様としてまつるようになりました。

蓮馨寺にある「おびんづる様」は、釈迦の弟子の一人です。喜多院では十六羅漢の一人として石仏になっています。お釈迦の命で、寺の外にあってインド各地をめぐり多くの人々を救った方でした。そのため、今でも呑龍殿の外にまつられ、そのお体にさわると、その霊力が頂けるとされ、大人気な仏様となっています。

おびんづる様

おびんづる様

明治から昭和にかけての蓮馨寺

 蓮馨寺粂原住職にお話を伺った(2010年、聞き手石橋啓一郎)。

「おこもり」が始まりの呑龍デー

―明治になってからの蓮馨寺はどうだったのですか。

粂原 神仏分離令から起こった廃仏毀釈で仏教が軽んぜられる風潮になりました。これに対応しようという意味もあって蓮馨寺も呑龍上人を明治初年から祀るわけです。で、呑龍上人が亡くなったのが8月9日なんですけど、毎月8日が「お逮夜(たいや)」っていうことで、亡くなった日の前日に供養するという慣習ができました。

そのお逮夜の日に皆が集まって、呑龍上人に感謝し人々の幸せを実現する日、「呑龍様の縁日」としたんです。当時の縁日はテレビだラジオだなんて無い時代だから、お経が終わると呑龍堂(祈願所)にみんなが上がり込んで、朝まで三味線や、歌を唄ったり、お酒飲んでの「おこもり」をして「来月もまた来れる様に頑張ろうな」と言って励ましあい朝になると帰っていったわけです。毎月8日を縁日として明治初年からずっと続いている行事なんです。それが今「呑龍デー」として人気を集めています。

呑龍堂(撮影2021年)

呑龍堂(撮影2021年)

現在の本堂と呑龍堂は川越の大火(明治26年)後に建てられたものです。建立にあたり国から非常に良い木材を払い下げして貰ったという話を住職は聞いたそうです。

縁日には人が集まるので次第に露店が出る様になり、呑龍堂の完成でさらに盛り上がります。昭和30年代全般まで「おこもり」はやっていましたが、同年代にテレビが普及すると集まる人が減り始めます。昭和48年頃におこもりは自然になくなりますが、お寺を開放する「おこもり」の伝統は一日中山門を閉めず24時間おまいりができる今の蓮馨寺に受け継がれています。

サーカスに大相撲

―大正になるとどうだったのですか。

粂原 サーカスとか、大相撲が来ました。(当時の写真などを見ながら)これ持っていたのは、三井病院横のホームラン劇場という映画館(現在は無い)のご当主さんなんです。一時代を画した興行主としての歴史的資料を寺にお預けになりました。

縁日にも大勢人が来たっていうくらいだから、今みたいに楽しみの少ない時代、サーカスや、相撲なんていうと皆飛びついて来たんでしょう。

(当時の相撲の入場券を見て)今これ蔵前国技館持ってて行って、入れませんかね(笑)。

相撲券

相撲券

蓮馨寺前の中央通りを越えてサーカスのテントがある写真(中央通り完成前のおそらく大正時代)、相撲巡業時のものと思われる太陽軒の130人前の食事領収書、関脇若ノ花(何代前の若ノ花かは不明)の名が記載されている大相撲慰安券(入場券)などが残っている。戦後生まれの粂原住職が分る範囲でも相撲は2回くらい、サーカスは5回くらい行われたそうだ。鶴川座の横に興行時の記念写真が貼ってある。川越人の楽しみは蓮馨寺から始まったということは確かなようだ。(『昭和の川越』に写真多数掲載あり)。

―昭和から現在の蓮馨寺について教えて下さい。

粂原 日華事変とか太平洋戦争に応召する人達が、蓮馨寺にお参りしてから戦場へ行くという歴史がありますね。戦争中は陸軍の師団が当山に支部を置き治安が保たれていました。縁日も太平洋戦争中は一時中断したようですが。

川越で初の街頭テレビ」

昭和20年代の後半か、昭和30年頃だと思うんですけど、境内の真ん中にテレビ受像機が置かれました。街頭テレビは川越で蓮馨寺が初めてですね。小さなテレビだったですけど、当時の日本テレビがテレビの普及のために設置したんです。大勢の人でにぎわいましたね。子供の私は近寄れず、見るのに苦労しました。テレビの普及とともに、夜の楽しみであった縁日に来る人の数も減ったけれども、やがて呑龍会という会が出来て、昭和60年代くらいから昼のイベントに切り換え勢いが盛り返してきましたね。

現在の縁日では、お檀家で芸人でもある方々による南京玉簾などの芸能、宝井琴梅師匠による講談が毎月欠かさず披露されています。講談は古来から社会の出来事や事件を分り易く伝え、情報を市民に伝え、そこから教訓を引き出すという芸能です。昔はお寺が社会的情報の発信基地だったんですね。境内の役割を復活させるべく師匠の公演は25年以上続いています。また、最近では、戦後30年続いたやきそば屋さんも復活、伝統の「松山だんご」さんとともに多くの市民のファンを集め、往年の活気をとりもどしつつあります。
川越の中心として、人の集まる場所であり、市民が楽しむ興行のルーツでもあった蓮馨寺。現在は参道を我が物顔で歩くネコや、寄り添って来るネコがいて、周囲が観光化で変化する中、ゆっくりとした特別な時間も提供してくれている。今も山門は開き続いたままで。 (石橋啓一郎)

2021年9月インタビュー

―呑龍デーの催しは続いているのですか。

粂原 これはずっと続いています。宝井琴梅師匠の高座と演舞があり、特にこの10年くらいは商店街の協力で露店が(市民の自主出店を含め)ずいぶん出るようになりました。(コロナ禍で)去年の後半と今年は少しすくなくなっていますが、いずれ復活すると思います。

―住職は一般向けの行事も多いですね。

粂原 住職は、市の施設で定期的に写経の会を開いておりますし、川越のNHK文化センターでの仏教講座は楽しくわかりやすいと好評で、もう10年近く続いています。また私は県の仏教会の副会長をつとめております。

―門前にある鶴川座跡はホテルになったのですね。

粂原 鶴川座跡は休業状態になっていて、市と寺で文化財として残そう検討したのですが、難しいということで、地域活性化に向けて2020年からは「はたごや」と銘打つレストランホテルに生まれ変わりました。熊野神社の宮司も賛同してくれて、ホテルの裏口を開けると神社の境内に行けるようにしてあります。ますます楽しい場が広がっています。

―このお寺が地域活動に熱心なのは、どのような思いからですか。

粂原 蓮馨寺は初代の感誉上人という方が学徳の秀でた方で、元来専門的な学問寺でした。増上寺(港区芝)を菩提寺とした徳川家康が、正式な坊さんを養成する学問所(檀林)として関東に18カ寺を指定すると蓮馨寺もその一員となりました。そこに呑龍上人が登場します。上人は春日部の出身で増上寺で修行しましたが、その時増上寺の法主(12代)は蓮馨寺出身の源譽存応上人でした。呑龍上人は太田の大光院住職となりますが、蓮馨寺をたびたび訪れました。来るたびに子どもに読み書きを教えたり、近所の人に相談にのったり、困った農家があれば行ってご祈願したり。だから蓮馨寺は学問的な厳格な部分と、呑龍上人のように一般の社会に接し人々を救おうとする庶民的な部分と、両方のイメージを持つ寺なのです。人々を救う仏様として呑龍上人をお祀りするようになりました。ですから、戦前戦中ですとサーカス、大相撲の巡業がかかったり、寺を一般の方々に開放して人々の心をなごませ楽しくする活動が伝統となっているのです。

―最近の川越を訪れる観光客の状況はどうですか。

粂原 コロナ前には観光客数740万人くらいまで増えました。コロナの状況下でお年寄りの来訪は減りましたが今、川越は若い観光客の割合が増えています。

寺は、「蔵づくりの街」の入り口にあたります。「蔵づりの街」は夕刻早めに閉店する店が多いので蓮馨寺周辺にその後飲食したり、寄っていただけるお店がこの10年でずいぶん増えてきましたね。市の施設である綿織物市場の復活と合わせ来年以後は、すべての店や施設が元気を取り戻すことと確信します。

―小江戸川越観光協会の会長をされているそうですが、今取り組まれているのはどんなことですか。

粂原 去年から、協会が提唱して「越えていこう、川越」というキャンペーンをはっています。コロナ禍の中、「歴史的にすべての困難を乗り越えた川越人の心を取り戻し、希望と自信を持って未来を開こう」というキャンペーンですが、予想をはるかに超える反響と協賛企業や個人の参加を得て、大きな運動となってまちを盛り上げています。

「越えていこう、川越」ポスター

「越えていこう、川越」ポスター

 また、各団体の観光推進企画や伝統芸能への協力なども鋭意継続しております。さらには県内の多くの観光協会とも綿密な連繋を計っています。

―住職はおいくつですか。

粂原 昭和24年生まれです。

―川越の出身ですか。

粂原 私は蓮馨寺で生まれました。私の祖父から川越におります。

だんご松山
鶴川座

(取材・過去記事編集2021年9月)

 

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