●大正時代の観光地
観光の対象となる名所も時代によって変化する。『東武鉄道百年史』に掲載されている沿線地図「東上鉄道線路案内(坂戸まで延伸された大正5年以後発行、)には、白子不動滝(成増)、吹上観音(成増)、平林寺(志木)、諏訪神社(鶴瀬)、愛宕神社(川越)、喜多院(川越)、永源寺(坂戸)が掲載されており、未開通部分だった坂戸・寄居間には岩殿観音、吉見百穴と岩窟ホテル、箭弓神社、越生梅林が掲載されている。百穴と越生梅林を除けば神社仏閣ばかりだ。しかも、成増の白子不動滝や吹上観音、鶴瀬の諏訪神社、川越の愛宕神社などは、現在では行楽地という雰囲気とは縁遠くなってしまった。いずれにしても、開通当時、沿線の観光地として意識されるのは神社仏閣が大部分だったことがわかる。
●遊園地型の行楽施設の展開
東上線全通後の観光地図を見てみよう。東武鉄道博物館が所蔵する「東上線名勝旧蹟廻遊便覧」(昭和11年以前発行)には、主要駅からのモデル観光ルートが記載されているが、ここには神社仏閣以外の新しいタイプの観光地も掲載されている。その一つとして成増にあった兎月園を紹介しよう。成増駅の南口から歩いて500m、現在の練馬区立豊渓中学校の北側にあたり、東武鉄道の創設者、根津嘉一郎が大正13年に開設。宴会場やボート池、各種のスポーツ施設が設置され、成増駅から専用バスも運行されていた。東上線もかなり積極的に売り込んでいたようたが、戦時中の食糧不足のため農地化され、現在は住宅地となり面影はまったくない。大正末期から昭和初期にかけて、関東地方の私鉄沿線では、京王閣(京王線)、多摩川園(東急線)、豊島園(西武線)、谷津遊園(京成線)等々、私鉄会社主導による遊園地開発が急速に進展した。兎月園もまさにその一例であったが、戦後の高度経済成長期を見ることなく、戦時の混乱にまぎれて消え去ってしまった。
下り電車に乗って中板橋駅の先、石神井川鉄橋の手前右側にあった遊泉園という石神井川の水を引き込んで作ったプールも、昭和初期にかなりにぎわったようで、現在の中板橋駅も、前身は遊泉園の利用者のための夏季臨時乗降場だった。これも現在では人家となりまったく面影はない。水泳といえば、大正9年から昭和26年にかけて30年以上にわたり夏季臨時駅が作られるほどの人気を博したのが、霞ヶ関駅手前の入間川水泳場だ。享楽的な色彩が強かったといわれる兎月園も乗馬などのスポーツ施設があったが、こうしてみると寺社参拝中心の江戸時代以来のレジャー観は明治大正という時代を経て大きく変化し、スポーツやハイキングなど自発的レジャーが人々の間に流行したこと、鉄道会社がそうした動きを取り入れた観光開発を行ったことがよくわかる。
●ウォーキング型レジャーへ
先にあげた「東上線名勝旧蹟廻遊便覧」は、各駅からの主要観光地を巡るモデルコースを設定している。目的地はやはり神社仏閣が多いのだが、それよりも、これらの名所を巡って歩くこと自体が行楽の大きな目的となってきたのだ。さいわい東上線の西部地域は比企丘陵や外秩父の山地をひかえ、ハイキングコースには事欠かない。毎回5千人を超す参加者がある大イベントに成長した東武鉄道が主催する外秩父七峰縦走ハイキング大会。毎年11月、10万人を超す参加者が東松山を出発点に比企丘陵をめぐるスリーデーマーチ。ハイキングとは言い難いが川越市内の史跡・町並みをめぐるウォーキング。どうやら東上沿線のレジャーはウォーキングがメインのようだ。
日光や箱根のような全国レベルの観光地もなく、絶叫マシーン主体の巨大遊園地もない東上線は、それゆえに既存の自然環境や歴史的遺産を活用したレジャーを推進してきた。駅で無料配布されるパンフレットも、ほとんどがウォーキングガイドといってよい。しかし、こうしたウォーキング主体の行楽は、自動車も使わず、余計な出費も抑えられる、まさに省エネ時代・エコ時代にふさわしい最先端のレジャーといえるだろう。
昨年秋、従来から国指定史跡だった菅谷館跡(嵐山町)に、松山城跡(吉見町)、小倉城跡(ときがわ町)、杉山城跡(嵐山町)を加えた国指定史跡「比企城館跡群」が改めて指定された。比企郡西部から大里郡南部にかけての東上沿線は、こうした保存状態のよい戦国期城郭の宝庫として知られる。野山に眠る城跡を探索する旅なども、東武鉄道としてあらたな観光資源として取り上げてよいのではないだろうか。
(本記事は「東上沿線物語」第17号(2008年9月)に掲載した記事を2020年6月に再掲載しました)
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