昭和12年の日中戦争開始以後、日本国内は戦時体制強化が本格化し、東上沿線には多くの軍事施設が東京市内から移転してきた。同じ東武鉄道沿線でも、おもに水田地帯を走る本線に比べて、武蔵野台地の北東縁を走る東上沿線には、より多くの軍事施設が移転してきた。軍部が土地を買い上げるとき、水田地帯よりも、畑や雑木林で覆われている台地のほうが買収価格は安かったし、地盤の悪い水田地帯よりも、固くしまった赤土からなる武蔵野台地のほうが、大規模な土木工事を行ううえで有利だったのである。
●東上沿線の航空基地
戦時中、帝都防空を目的として、東上沿線には3ヶ所の航空基地が造成された。1つが以前に触れた昭和18年完成の成増飛行場(現・光が丘団地)、そして同年完成の坂戸飛行場(現・坂戸市千代田、鶴ヶ島市富士見)、3つ目が松山飛行場(現・東松山市新郷、滑川町都)である。このうち実際に運用されたのは成増飛行場で、坂戸は飛行機が飛来したものの、基地として稼動しないまま終戦を迎えた。松山飛行場に至ってはついに未完成のまま終戦となってしまった。
戦後になると都心に近い成増飛行場は米軍住宅となり、日本に返還後は巨大なニュータウンに生まれ変わった。一方、埼玉の草深い田舎にあった坂戸と松山の飛行場跡地は、満州から引き上げてきた開拓団が入植し、農地として利用された。
坂戸飛行場跡地は、昭和40年に日本住宅公団の手で北半部の開発が開始され、住宅と工場の2本立ての職住接近形という手法で都市化が進められた。昭和54年4月には、飛行場跡地の南を走る東上線に若葉駅が開設され、南半部の宅地化も急速に進んだ。最近ではショッピングモール「ワカバウォーク」の完成で、すっかり都会化してしまった。
●路線を曲げた飛行場
未完成のままに終わったという松山飛行場だが、東上線に与えた影響といえば、こちらのほうが大きかったといえよう。
昭和17年に測量と土地買収が開始された。しかし飛行場敷地内北部には東上線が東西に横切っていた。当然、これを移設しなければならない。東武鉄道が陸軍の要請に基づき、鉄道線路変更認可申請書を当局に提出したのが昭和19年10月。当時の松山中学校(現・松山高校)の生徒なども動員してわずか3ヶ月後の翌年1月には武州松山(現・東松山)・武蔵嵐山間5.3キロの移設工事を完了した。この迂回工事により、武州松山・武蔵嵐山間の距離は0.2キロ増加した。
東上線移設後も、飛行場建設工事は続いた。広さ200ヘクタールという広大な飛行場の工事には刑務所の囚人が動員されたが、何度か囚人の脱走騒ぎが起こり、そのたびに半鐘が打ち鳴らされ、周辺の住民は恐怖したそうである。また、移設後の東上線車窓からは、工事中の飛行場が見渡せたので、機密保護のために目隠し用の塀が飛行場北側に設けられたともいわれている。
昭和20年5月には飛行場建設工事のめどがつき陸軍の第232飛行大隊が工事を引き継いだが、まもなく8月の終戦を迎えることとなる。肝心の飛行機のほうは、滑走路の土が十分に固まっていなかったため、離着陸に耐えられる状況ではなく、厚木の航空基地から飛来した軍用機が着陸を試みたが、車輪が滑走路にめり込んで転倒したという。
●飛行場跡地の変貌
終戦後も、東上線の線路は元に戻されることなく、飛行場跡地は満州から引き上げてきた開拓農民の労苦で農地として生まれ変わる。やがて高度成長時代を迎え、昭和46年の森林公園駅開設あたりから、一帯は大きく変貌する。北半部が工業団地となり、昭和50年代に入ると関越高速道が横切り、近年では国道254号線バイパスが開通するなど、かつての開拓地の面影もすっかり影をひそめてしまった。
飛行場や、移設前の東上線の線路跡の遺構はほとんど消え去ろうとしている。わずかに東松山駅から森林公園に向かって1キロほど走ったところに、現在の線路と旧線路(現在は道路)の分岐点の面影が見られる。ここから分かれた旧線路の敷地を利用した道路は、かつての松山飛行場の敷地まで一直線に続き、線路だった頃の面影をとどめている。武蔵嵐山駅寄りの旧線路跡は国道254バイパスの開通や住宅地開発などで、この数年のうちにその大半が消え去ってしまった。松山飛行場を実際に目にした人も、次第に少なくなってきている。まさに昭和は遠くなりにけり、である。
(本記事は「東上沿線物語」第8号(2007年12月)に掲載したものです。
コメント