広告

沿線歴史点描⑱ 東上線創世記(3)上州への夢をあきらめ寄居へ 山下龍男

当初は経由を予定してなかった坂戸

大正3年5月、池袋から川越を結ぶという第一の目的を達成した東上鉄道だが、東京と上州を結ぶという遠大な計画からすれば、まだ3分の1にも満たない距離だった。

川越の先、入間川の手前に置かれた田面沢まで敷かれた東上鉄道の線路は、その2年後の大正5年10月に坂戸町(現坂戸)までが開通するが、明治36年の東上鉄道創立趣意書に付されていた路線計画図(複数のバージョンがある)を見ると、計画段階では必ずしも坂戸を経由するとは考えられていなかったようだ。大縮尺の地図なので細かいルートは特定できないが、地図によっては島田(現坂戸市北部)や、小坂(現坂戸市北東部の中小坂と「隣接する川越市北西部の下小坂か)を経由して松山方面に向かうように描かれているからだ。

確かに川越から松山をめざすなら坂戸を経由するよりも中小坂、塚越、島田といった現在の坂戸市北東部を通過したほうが早い。しかし経営面から見るなら、江戸時代以来入間郡北部の中心都市として栄えていた坂戸を無視するわけにはいかなかったのだろう。大正3年の第1次開通時の終点が現路線上にある田面沢に置かれたことは、この時までに、小坂、島田ルートから坂戸経由ルートに変更されたことを物語っている。

今でも坂戸駅を出て真西に向かっていた線路は、間もなく右に大きくカーブを切り北東へと進むことになる。坂戸を経由して松山を目指すことになったが故の急カーブである。

比企の中心都市・松山へ

さて松山町を経由することは当初からの計画だったのだろうか。朝霞市史に掲載されている東上鉄道創立趣意書付属の路線計画図では、川越から先は高坂、菅谷(現武蔵嵐山)を経て、上武鉄道の小前田駅に至り、そこから児玉から藤岡へと向かうルートを示している。新座市史所収の路線計画図でも松山町を直接経由せず、高坂から菅谷を経るように描かれており、松山町は当時計画されていた八王子と群馬県の太田、大間々方面を結ぶ坂東鉄道の通過地として描かれている。坂東鉄道と東上鉄道は高坂の手前でクロスする予定だったようだ。

これらを見ると、松山を経由せず、高坂から直接菅谷を目指したようにも受け取れる。しかし、路線計画図と同時に発行された東上鉄道創設関連書類のほとんどには川越町から松山町を経過して藤岡に向かうと明記されているから、松山経由は当初からの決定事項だったと考えたほうがよい。なんといっても松山町は江戸時代から比企地方の中心地であり、坂戸と同様、ここを東上鉄道のルートから外すことは経営的にも考えられないからである。

寄居を終点とする

松山町から寄居に至る路線がいつ決定したのかは、当初の群馬県を目指すという計画がいつ取りやめられたかが重要なヒントになると思われる。群馬方面への免許が無効となったのは大正13年だが、小川町史によれば、大正11年末には小川町への延伸が決まっているから、これ以前に群馬県延伸は実質的に放棄されていたものと思われる。群馬県を目指すなら、わざわざ菅谷から山を越えて小川町に線路を伸ばさずに、当初の予定通り菅谷から北上し、秩父鉄道の小前田駅を経由して児玉・藤岡方面へ向かったはずだからだ。

群馬県への延伸の夢を断念した東上線は、大正13年にその終点を寄居としたが、地元では駅の誘致をめぐってひと悶着おきている。現在は寄居町の一部となっている当時の桜沢村と寄居町との間で駅誘致をめぐり争いが起きたのだ。町としての規模が大きく、すでに秩父鉄道の駅もあった寄居に決まったのは当然だったが、この対立のおかげで、当時進んでいた桜沢村と寄居町との合併計画が中止になってしまった。

こうした紆余曲折を経て、大正14年7月10日、ようやく東上線全線が開通した。池袋~田面沢開通から11年2カ月が経過していた。

(本記事は「東上沿線物語」第29号=2010年5/6月に掲載したものです)

タイトルとURLをコピーしました