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沿線歴史点描⑰東上線創世記(2) 志木と大和田の駅誘致合戦 山下龍男

前回の東上線の始発駅変更に続いて、今回は東京・川越間のルート決定をたどってみたい。

●川越街道と新河岸川

江戸時代、川越と江戸を結ぶ交通機関といえば、新河岸川の舟運と川越街道の陸運だ。そして両者には、それぞれ運輸・交易によって財をなした商人たちがいて、町や村が発達していた。こうしたことから、東上鉄道の路線を新河岸川沿いか川越街道沿いを通すかで紛争が起きるのは予想される。いや、東上鉄道計画以前に、川越街道派と新河岸川派との争いは起きていた。

明治28年に敷設願いの出された両毛地区と東京を結ぶ毛武鉄道のルート争いがそれだ。毛武鉄道の埼玉県南部ルートは、当初、白子〜大和田〜大井〜川越と川越街道沿いを進むものだったが、翌明治29年提出の「設立免許申請書」には大和田ではなく志木〜鶴瀬〜新河岸〜川越に至るという現在の東上線に相当するルートに変更されていた。これを知った川越街道沿いの住民は「毛武鉄道会社改正線路不認可願書」を逓信大臣宛に提出し、志木町へのルート変更を認めないよう働きかけたが、その後、毛武鉄道計画自体が頓挫消滅してしまったためうやむやになってしまった。

●東上鉄道ルート変更

明治36年に出された東上鉄道敷設計画による川越以南の埼玉県内ルートは、南から白子〜大和田〜大井〜川越とたどる毛武鉄道第一次ルートと同じものだった。しかし、明治44年11月、東上鉄道株式会社の設立総会前後には白子〜志木〜大井〜川越のルートで工事を進めることとされた。毛武鉄道計画時代と同じ展開である。これに対し、駅を志木に持って行かれた川越街道沿いの大和田町は鉄道院総裁の原敬宛に「東上鉄道東京川越間確定線に関し情願書」を明治45年7月に提出する。「毛武鉄道会社改正線路不認可願書」の東上鉄道版だ。

川越街道沿いから新河岸川寄りに変更される動きが明らかになるのは、明治43年、資本金不足のため建設計画が滞っていた東上鉄道に、根津嘉一郎以下の東武鉄道役員が経営に参画することになってからだ。

大和田町では明治43年6月に野火止の古刹平林寺の所有地を駅の敷地として寄付するという誘致策を出しており、この頃から強まった志木町側の駅誘致活動に対抗するためと推測される。一方、明治44年7月には、大井町鶴ガ岡地区の川越街道付近では、住民に対し鉄道測量実施による樹木伐採に対する補償金見積りの提出が求められているから、大井地区周辺では川越街道ルートの可能性も残っていたようだ。しかし、川越街道沿い住民の奮闘もむなしく、明治45年(大正元年)に志木・鶴瀬・上福岡を通り川越に至るルートでの用地買収と建設工事が始まり、大正3年の開通に至ったのである。

●誰がルートを変更したのか

ルート変更が誰の意向なのかは確かでないが、東上鉄道の経営に参画した根津嘉一郎を中心とする東武鉄道サイドの意向という説が有力だ。東武鉄道側は、川越街道沿いのルートでは新河岸川沿いの住民を乗客として呼び込むことが困難と考えたのではなかろうか。ちなみに明治中期、川越街道沿いの町村人口約1万6千人に対し、新河岸川寄りの町村人口は約1万8千人である。

鉄道の経営安定のためには双方の住民を鉄道の顧客とする必要がある。そのためには双方の中間点に線路を敷くことが常識的な判断である。実際、地図を見ればわかるように、東上鉄道は「川越街道沿いから新河岸川沿いルートに変更された」というよりも、「川越街道と新河岸川の中間に敷かれた」と言えるだろう。

現在も和光市から朝霞へ向かう途中、東上線は右に大きくカーブを切る。このカーブこそ大和田町から志木町へとルートが変更されたことを物語る痕跡と言えよう。

(本記事は「東上沿線物語」第28号=2010年3月に掲載したものです)

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