東上線の「東上」とは、「東京から武州を経て上州(群馬県)をつなぐ」という当初の目的から名づけられた。最終的には池袋~寄居間のみで完結し、上州への夢は実現しなかったが、東上鉄道計画段階から全通までには多くの曲折があった。今回は東上鉄道起点の池袋駅決定までの曲折を追ってみよう。
謎の巣鴨町氷川停車場
東上鉄道の計画が初めて公のものとして姿を現したのは明治36年12月23日のこと。この日、逓信大臣に提出された一連の東上鉄道敷設免許申請書類の中にある「東上鉄道株式会社設立趣意書」には、「小石川巣鴨町字氷川を起点として巣鴨村地内旧日本鉄道線路池袋に連絡し埼玉県入間郡川越町に到りて川越鉄道線路に連絡を取り……」とあり、「小石川巣鴨町字氷川」を起点としている。この趣意書と同時に提出された「東上鉄道線路予測説明書」には、「北豊島郡巣鴨町を起点として氷川停車場を置き……」と書かれている。ここにある巣鴨町の字(あざ)氷川とは現在のどこなのだろうか。
当時、巣鴨町と巣鴨村という同名の自治体が隣り合って存在していた。巣鴨町は中山道沿いに発達した町並で今の巣鴨駅周辺、一方の巣鴨村は現在の大塚駅と池袋駅を中心とする農村地帯だ。「趣意書」や「説明書」を読めば、当初の起点駅設置予定地である字氷川は巣鴨町にあることになる。しかし、巣鴨町の字として氷川という地名は見当たらない。氷川というからには氷川神社が鎮座していたことが想像されるが、巣鴨近辺で氷川神社というと小石川植物園の北西に隣接する氷川(簸川)神社が有名で、これにちなむ氷川下という地名は昭和40年代まで文京区の町名に残っていた。だが、ここは巣鴨町ではなく東京市小石川区(現在は文京区千石)に属する。やはり氷川停車場は北豊島郡巣鴨町のいずこかと考えたほうがよさそうだ。
しかし、「板橋区史」所収の東上鉄道創立書類(東京都公文書館所蔵)にある「起業目論見書」の第三項には「線路の起点は東京市小石川区下冨坂町より府下北豊島郡巣鴨村地内日本鉄道線を横断し……」とある。申請書類の中で異なる2つの起点が示されているのだ。小石川区下冨坂町とは現在の文京区小石川2丁目のうち文京区役所そばの冨坂下交差点付近で、当時郊外だった巣鴨に比べずっと都心に近い。しかし、これ以外の趣意書関連の書類はすべて巣鴨町を起点とするとあるから、明治36年の免許申請時は「巣鴨町を起点としていた」と考えられる。その正確な場所は不明としか言いようがない。
起点を大塚辻町に変更
その後、明治41年に下付された東上鉄道の仮免許状のなかでも北豊島郡巣鴨町を起点としているが、明治44年11月14日に開催された東上鉄道創立総会において起点の変更が決議された。理由は以下の通りだ。すなわち、従来の起点である巣鴨町から日本鉄道(後の山手・埼京線)池袋駅に到る途中の大塚町で市電と交差することになる。人家の多い中で土手を築いて立体交差させるのも困難である。この市電は大塚辻町まで開通しており、起点を変更しても都心への交通は確保されている―というものだった。こうして起点は巣鴨町から大塚辻町に変更された。大塚辻町とは現在の地下鉄丸ノ内線新大塚駅付近である。
しかし、大塚辻町の起点も再び変更される。東上鉄道は大正元年8月に下板橋~池袋間の軽便鉄道敷設免許を申請。11月に免許が下付され、同時に大塚辻町~下板橋間の免許は失効した。今も東上線のゼロキロポストが池袋ではなく下板橋にあるのは、こうした事情を反映している。
起点変更の理由は大塚辻町から板橋まで市電の延伸計画があり、この区間に鉄道がだぶってしまうこと、池袋に立教大学、豊島師範、自由学園などの学校が建ち、将来性があると判断したことなどである。ビックカメラとヤマダ電機の家電戦争の華々しい展開、東京メトロによる商業施設エチカ、エソラの開業など、今も東京を代表する繁華街として成長を続けている池袋を見るにつけ、往時の東上鉄道経営陣の先見の明に感心せざるを得ない。
(本記事は「東上沿線物語」第27号=2010年1・2月に掲載したものを2022年5月に再掲載しました)