今回はちょっとした沿線タイムトラベルを楽しんでみよう。目指す時代は19世紀前半、文化・文政の時代。江戸文化の爛熟期である。新橋で仕立屋を営む竹村立義は、商売の合間を縫って江戸近郊を旅するのが何よりも楽しみだったが、単なる旅好きではなく、行く先々の故事来歴を調べ、さらにスケッチをして、帰宅するとこれらをまとめて紀行文にするという、念の入れようだった。
●夜の松山町に響く犬の遠吠え
その立義が川越から松山、そして慈光寺を目指して旅立ったのは文化15年3月5日、西暦でいえば1818年4月10日、桜も散りはてた頃である。夜も明けぬうちに新橋の自宅を発ち、文京区の白山あたりで夜が明ける。同行は友人村山某とその弟。一行は中山道の板橋宿を左に折れ川越街道を進む。都内有数の商店街として有名なハッピーロード大山は、3人の歩いたかつての川越街道である。白子宿の滝不動を過ぎて野火止の平林寺を参詣し川越城下へとたどる。
あいにくの雨模様の中ようやく川越の町にたどり着いた。夕闇も迫るころだったので、喜多院と東照宮を急ぎ参拝して、川越城下の旅館街として有名な石原町に着き、明石屋という旅籠に宿泊する。激しい風雨の音にもかかわらず、旅の疲れもあってこの晩はぐっすりと眠った。
明くる6日、前夜の雨も上がり、一行は川越を出て北に向かい、増水した入間川を舟で下伊草村に渡る。今の落合橋のある所だ。一行は現在の川島町を北上し吉見観音(吉見町)へと向かった。参詣を済ませ、門前の茶屋でこんにゃくに味噌を付けたものを注文するが、空腹だったにもかかわらず「味よろしからず」。やはり田舎茶屋の粗末な料理は江戸っ子の口にはあわないようだ。
このあと松山城跡を左に見て松山町に入る。当時の松山城跡は「外郭内郭から堀の形厳然としてすべて樹木一本も」ないはげ山だったと記している。松山では
「みどりや」という旅籠に泊まり、あんまを頼み疲れを癒やす。このあんまが言うには、「松山には時の鐘はありませんが、五つ(午後8時ごろ)になると犬が一斉に鳴くので時刻がわかるのですよ」という。はたしてその時刻になると犬が一斉に遠吠えをはじめた。四つ(午後10時ごろ)にも同様に吠えている。九つ(午前零時)はどうだろうか思ったが、眠ってしまってわからなかった。犬の鳴き声で時刻を知るのは初めてだと、立義は珍しがる。
翌日は、箭弓稲荷から野本無量寺をへて岩殿観音(いずれも東松山市内)を参詣し、慈光寺(ときがわ町)に向かう。箭弓稲荷は、この頃、江戸庶民の信仰を大いに集めていたが、社殿は未完成で、信者の奉納したおびただしい鳥居が目を引くのみだった。岩殿観音では、橘屋という門前の料理屋で、鄙にはまれな料理に出会い、満足して慈光寺を目指した。
●雨に祟られた慈光寺
この晩は慈光寺内の宿坊に泊まるつもりだったが、寺ではそのようなサービスを行っていないと聞き、しかたなくふもとの民家に宿をとる。翌8日、慈光寺の山へ登るが、楽しみにしていた大般若経(現・国宝)を拝観することができず、雨は降りだし、下山途中に道に迷ったり、楽しい参拝ではなかったようだ。
その後、越生(越生町)、川角・大類(いずれも毛呂山町)とたどり、高麗川を越えようとしたら橋が外されていた。村人の話では、この数日の大雨による増水を利用して、上流の材木を筏で流すために流域の橋を外したのだという。浅瀬を見つけて徒歩で高麗川を越えるが、間もなく日が暮れてしまった。この日は川越泊の予定だが、それには入間川を越さねばならぬ。暗闇の中では徒歩で川を越すわけにもいかず、農家に頼み込んで百文で舟を出してもらい、ようやく川越の町にたどり着き、3日前に泊まった明石屋に入る。翌日は天気も回復し、養寿院・蓮馨寺など城下町見物ののち、所沢街道を南下し、途中、三富新田の多福寺に参詣。その西に広がる武蔵野の故地を訪ね、所沢から久米川を経て、小金井橋のたもとの柏屋に一泊。翌日のたそがれ時に新橋の自宅へ無事帰着した。5泊6日の旅であった。
以上は竹村立義が旅行後に記した『川越松山之紀』の大筋を述べたものだ。このほかにも十方庵敬順の『遊歴雑記』、古川古松軒の『四神地名録』などなど、現在の東上線沿線を訪れた紀行、地誌類は数多い。いずれも活字化されていて図書館で容易に目にすることができる。興味ある方はぜひご覧になられたし。
(本記事は「東上沿線物語」第21号(2009年1月)に掲載した記事を2020年12月に再掲載しました)
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