川越市松江町の路地裏に、2階建て長屋風の2棟の大きな建物がある。明治の末に、川越及び周辺で生産された棉織物の卸取引を行う場として建設された川越織物市場(いちば)である。往年の川越の産業史を語る産業遺構であり、全国的にも唯一現存する明治の織物市場建築として文化財としての価値も高い。
この織物市場は、一度マンション建設に伴い取り壊される予定だったが、近隣住民の保存運動によって守られ、今川越市による復元、整備事業が始まった。蔵のまち・一番街にも近く川越観光の目玉施設としても期待されている。川越織物市場の保存と再生をめざす「川越織物市場の会」の西澤堅会長、及び小島延夫事務局長(弁護士)にお話をうかがった。
西澤堅会長に聞く 保存活用で地域を活性化
―織物市場とは、どのような場所なのですか。
西澤 織物市場は、川越の産業遺産です。川越は江戸時代後半から明治の前半にかけて全国有数の織物の集散地でした。しかし不景気と取引の周辺への分散で川越の織物産業が衰退します。これに対し川越における織物取引を再活性化させようと、明治末の1910年に開場したのが織物市場です。当時では近代的な施設で、地域をかけた公共事業だったといえます。
織物市場は、伊勢崎とか八王子とか桐生にもありましたが、全国で残っているのはここだけです。建築物の産業遺構として貴重です。
―織物と言いますと。
西澤 川越唐桟(とうざん)は有名ですが、木綿織物です。上質な木綿織物として、江戸・東京で人気だったようです。周辺で生産し、川越に集めて売ったわけです。川越街道には織物業者が並んでいました。織物市場の2階には品物がストックできました。
―皆さんの努力で、保存、整備されることになったわけですね。
西澤 よくぞ残ってくれたという気持ちです。壊すのは簡単ですが、守り、維持していくのは本当に大変です。それが市民のボランティア、つながりのある運動として、一人ひとりが文化とか歴史とかを理解してやってこられたのが一番うれしいです。
―今後、ここをどう活用していきたいですか。
西澤 織物市場は、川越観光のへそに当たる部分です。喜多院や初雁公園、一番街に向かうポイントになります。市民も観光客も憩いができます。そのような使い方がよいと思います。
―具体的にはどのような施設に。
西澤 建物が当時のままに復元され、見学できるようになるわけです。それ以外に、にぎわいの面で、商業資本を入れるか、地元資本を入れるか、検討します。ビジネスが起これば、手助けをしてくれた人たちに雇用が生まれ、近所の商店街も活性化されます。織物市場は、蓮馨寺(れんけいじ)正門前から続く立門前通りに面しています。現存する最古の劇場の1つである鶴川座とここを保存活用ながら、一帯を活性化させるのが一番よいのではないかと思います。
―川越観光の売り物にもなりますね。
西澤 富岡製糸場が世界遺産に指定され、観光客が押し寄せています。富岡は、国策で、産業を興すための工場でした。ここは、商品を町民が売って、商業活発化させるための施設でした。しかし、明治時代の繊維産業の遺構であることは共通です。川越を売り出す時、伊香保とか富岡の観光ルートに組み入れるのもよいのではと考えています。
―西澤さんは当初から保存活動に関係しているのですか。
西澤 当初から関わっています。「川越織物市場の保存再生を考える会」(現川越織物市場の会)初代会長は町内会長の戸田さんという方でしたが、亡くなられて私が引継ぎました。
―お宅は近所ですか。
西澤 そうです。ここにマンションができるというので、小島弁護士はじめ町内の人が、マンションをやめさせてここを残したいと立ち上がったこと始まりました。
―西澤家は織物市場に関係していたのですか。
西澤 私の家は与野の出で、私は川越で4代目になります。曽祖父は医師、祖父は町役場の役人でしたが、曽祖父の兄弟が、市内六軒町の武陽社という織物業をやっていました。川越に中島久平という有力な商人がいたのですが、中島商店の番頭が西澤でした。武陽社は、職を失った川越藩の武士を使おうと設立されたのですが、その際西澤が経営を任され、代々西澤慎吉を名乗っていました。織物市場は株式で運営しており、武陽社も株を持っていました。
―西澤さんは元々サラリーマンだったのですか。
西澤 国際航業という会社に勤めていました。その後、写側、日本Gisなどという会社の経営に携わりましたが、今は整理してエムアイメズ(東京・新宿)というシステム開発の会社をやっています。これも、子供に事業継承して、あとは地域のボランティアとか傾注しようかと。
―若い人の創業支援をしているのですか。
西澤 うちの会社が、起業家にオフィスを貸しています。だから、若い人がビジネスをやり販売ルートを見出せない時などに、せっかく70数年の人生を経験したので、紹介したり、手助けするということです。川越でも、経営がうまくいかなくなった老舗の再生のお手伝いをしたこともあります。
―西澤さんは日本画をたくさんお持ちだそうですね。
西澤 祖父は町役場に勤めていましたが、風流で絵を見るのが好きでした。その頃、東京から川越に絵を売りに来ていたのを祖父が取り次ぎ、絵の好きな資産家に家に集まってもらい購入してもらいました。売れないと家に残ります。そのような縁で画家との交流も多く、川越に関係する日本画ばかりです。
小島延夫事務局長に聞く 市民の自発的保存活動の経過は画期的
―小島さんは市場の近くにお住まいですか。
小島 そうです。織物市場から100mのところで、生まれ育ちました。
―保存活動の経緯を教えていただけますか。
小島 2001年の11月2日にこの問題が表面化しました。織物市場を壊してマンションを建てるという計画です。私たちは、すぐに「川越織物市場の保存再生を考える会」(現川越織物市場の会)を作って、運動を開始しました。
―具体的にどのような反対運動を。
小島 貴重な施設なので残してほしいと各方面に働きかけをし、署名を集めました。3週間で1万3000くらいの署名を市に提出。市が買い取ってくれる方向になりました。
しかし地権者の一部や不動産業は強硬で、壊しに来るという話だったので、みんなで寝泊りして守りました。
―市場は当時貸家で人が住んでいたそうですね。
小島 10世帯くらいが住んでいました。
―最終的に市による買い上げが決まったのは。
小島 2002年の11月頃です。
―その後の保存会の活動は。
小島 2001年1月に、川越織物市場の会に衣替えして以来年1回の総会、毎月の一般公開、夕涼み会とか、食市とかのイベントを開催しています。
また02年の段階で、活用検討委員会を立ち上げ、活用のあり方について提言書を作成しました。歴史まちづくり法の活用が柱です。川越市は適用を申請していなかったので、10年に関東で唯一指定を受けていた茨城県桜川市真壁町に調査に行き、秋に国交省、文化庁、三重県亀山の専門家によるシンポジウムを開催。これを受け川越市も歴史まちづくり法の適用を申請しました。その最初の再生事例が亀屋別邸。2番目が織物市場になります。
2011年は、織物市場を紹介するビデオを作成。その後書籍化もしました。
2012年には織物市場で撮られた映画「無法松の一生」(東映版、三国連太郎主演)の上映会を開きました。
その後は、活用計画に関し意見や提案をしています。
―整備計画が固まったのですね。
小島 市が歴史まちづくり法に基づき、旧織物市場を整備することになりました。今年度は基本設計、来年度から実施設計、17年度半ばに本格工事に着工、19年度中、東京オリンピックまでには完成、公開される見通しです。
―どのような工事を。
小島 創建当時に戻すのが基本です。全部解体修理になりますが、骨組みは残ります。3億円以上はかかるでしょう。
―建物を残す意義をどう考えますか。
小島 明治期の市場建築としては、他に例がありません。この市場は、桐生、足利、八王子をモデルにして作ったのですが、完全に近い形で残っているのは川越だけです。川越にとっても、織物取引は江戸から明治にかけての発展の原動力なので、歴史の記録を残す意味もあります。復元されれば重要文化財になる余地があると思います。
市民が自発的に保存に取り組んできたという経過も画期的です。それが今後の地域の活性化に役立てばよいです。
―小島さんは弁護士としてはどのような活動を。
小島 主に住民運動とか、公害運動の現場に取り組んできました。その経験を川越でも生かしてやってきたつもりです。
―織物市場の保存活動で何が大変でしたか。
小島 1つは、業者・地権者との交渉 もう1つは、川越市は文化財保護には熱心な方だが、それでもそのために土地を取得するかどうかなかなか決められなかった。なかなか行政も腰は重いなと。
(取材2015年6月)
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