NHK大河ドラマ「青天を衝け」で、青年期の渋沢栄一や従兄の尾高惇忠らが剣術の稽古をする様が描かれた。師だったのが、坂戸で神道無念流の道場を開いていた大川平兵衛だ。平兵衛の孫大川平三郎は渋沢栄一の娘婿。渋沢を頼って後の王子製紙に入り、製紙業をはじめ多くの企業の設立運営に関わり、「製紙王」と呼ばれた。平三郎はまた生まれ故郷の治水事業など地域の救済・振興のため多くの貢献をした。
(以下の記事は坂戸市教育委員会社会教育課の岡安秀人さん、坂戸市中央図書館の上原徳子さんのお話、坂戸市教育委員会・図書館の関連資料にもとづいて作成しました。また下部「大川平三郎と武州瓦斯」は、「東上沿線物語」第2号の原宏武州瓦斯会長(当時)インタビュー「過酷な農業体験をバネに」の会社の創業の歴史の部分を再掲しました)
祖父の平兵衛は、神道無念流の剣術家で道場を持つ
大川平三郎は、万延元年(1860年)10月に川越藩横沼村(後の三芳野村、現在の坂戸市)で川越藩士大川修三の次男として生まれた。大川家は、渋沢栄一と縁が深い。祖父の平兵衛は、神道無念流の剣術家で道場を持ち、渋沢自身や渋沢の従兄の尾高惇忠を指導。平三郎の父修三の妻みち子は、尾高惇忠の妹、渋沢の妻千代の姉であり、平三郎の妻は渋沢の四女照子である。
祖父平兵衛は享和元年(1801)今の熊谷市に生まれた。当時栄えていた神道無念流の秋山要助の門下生となり、20歳で免許皆伝を得て、横沼村の大川家の婿養子となった。平兵衛の剣は実戦を想定した厳しいもの。師の秋山要助が各地を歴遊していたので、秋山門下生の多くが平兵衛の門弟となり、道場は栄えた。実力が川越藩主松平直克に認められ、士分となった。道場を横沼と川越の通町に構え、武州北端の手計村や血洗島村(今の深谷市)の豪農尾高家や渋沢家にまで出稽古に出かけた。
セメント・化学・電力・製鋼・金融等々、80有余に及ぶ多くの事業に力を注ぐ
明治を迎え、廃藩置県により、平三郎の父修三は藩士の職を失い、大川家の生活は困窮を極めた。明治5年、平三郎は叔父の渋沢栄一を頼って上京し、書生となり勉学に励み、明治8年学業を中断し渋沢が設立した王子の抄紙会社(後の王子製紙)に入社した。
明治12年、20歳の時単独でアメリカに渡り、新たな製紙技術を習得して帰国、製紙原料を稲わらに替えてその大量生産に成功する。明治17年にはヨーロッパに渡り、木材パルプ製造の方法を研究して、日本で初めて木材によるパルプ製造に成功する。また、製紙原料の木材を煮る釜を改良して、大川式ダイゼスターを考案するなど製紙技術の向上に多大な貢献をした。会社に繁栄をもたらした平三郎であったが、明治31年、会社幹部との対立により退社した。
その後、王子製紙で培った知識・技術に加え、類まれな努力により九州製紙、中央製紙、樺太工業など次々と製紙会社を創業し、さらに当時王子製紙に次ぐ富士製紙をも傘下に収めた。さらに、浅野総一郎と組んで浅野セメントを興すなどセメント・化学・電力・製鋼・金融等々、80有余に及ぶ多くの事業に力を注いた。特に製紙業界では製紙王と呼ばれた。
私財で小畔川に堤防(「大川堤」)を築く
平三郎は郷党の念厚く、当時、水害等で疲弊にあえいでいた三芳野村のために私財で小畔川に堤防(「大川堤」)を築くとともに産業の振興や三芳野小学校の増新築・校庭の拡張に巨費を投じるなど、同村の発展に多大な貢献をした。さらに大正14年、県内の若者のために大川育英会を設立し、多くの優秀な人材を育成した。
平成19年坂戸市が「大川平三郎翁記念公園」を整備
平兵衛が剣術を教え平三郎が生まれた大川道場の跡地には、平成19年(2007)に坂戸市が「大川平三郎翁記念公園」を整備した。そこに立つ頌(しょう)徳碑は元々サハリン(旧樺太)の恵須取(エストル)町(現ウグレゴルスク市)にあった。平三郎がパルプ工場を建設し地域に貢献した功を称えたもの。訪問した日本の育英会関係者が見つけて、持ち帰り、公園に設置した。公園隣には、大川家一族の墓所がある。また坂戸市立中央図書館は昭和59年の開館以来 2階に「大川平三郎常設コーナー」を設け、関係資料を展示している。
武州瓦斯と大川平三郎
大川平三郎は故郷である坂戸市三芳野地域の治水事業などに多大な貢献をなしたが、その仲介をし共に行動したのが原次郎(1895-1988、元武州瓦斯社長)であった。武州瓦斯の創業にも平三郎が関わっている。
原宏武州瓦斯会長の話(「東上沿線物語」第2号=2007年6月掲載より)
治水事業が創業のきっかけ 製紙王・大川平三郎と武州瓦斯
私の家は坂戸の紺屋という所ですが、入間川、越辺川など、4本の川が合流する低湿地ですから、絶えず洪水に悩まされていました。
父(原次郎)は、割合に成績がよかったので、中学を卒業すると大学に進学されるのを恐れて、農業を継がせるために5年で中退させられてしまいました。父は農業に従事いたしましたが、毎年水害に見舞われるので、村を救う第一は治水事業だということを強く感じ、自分の一生をかけて治水事業に取り組み、村人を幸せにしようと決意をし、村人と一緒に治水事業に取り組みました。しかし、貧村で力も金もなく仕事ははかどりませんでした。
私の家の近くに、当時製紙王と言われた大川平三郎翁が実業家として成功をされておりました。大川翁は、台湾から樺太まで製紙工場を作られ、70以上の会社を作り成功をされておられました。
父は大川翁に治水事業の支援をお願いに上がりましたが、「自分たちのことは自分たちでやれ」と追い返されました。仕方なく、村人たちで何とかやろうと治水事業を続けているうちに、その執念が大川翁に認められ、「これはやる気があるな」ということで、それから技術的な指導や資金の支援をいただいて、治水事業が進められてゆきました。今でも、大川さんの資金による、「大川堤」という堤防が残っています。
(父は)これから、大川さんと密接な関係ができまして、月に何回か上京して、産業組合(今の農協の前身)の運営、治水事業をはじめ、村の発展問題を協議しながら、やってきたわけです。
大川さんはその頃、あちこちに立派な会社を作られていましたので、うちの父も、「地元にも何か有益な会社を」と、お願いをいたしました。大川翁と父は協議をいたし、社会のためになる事業と言えば電気、ガス、鉄道があるが、その当時は、燃料に薪とか炭とかを使い、山を乱伐して、洪水が出やすかったことから、石炭とか、都市ガスを燃料に使う方向になれば洪水がなくなるだろうと。であれば、ガス会社ということで、武州瓦斯ができたわけです。大正15年10月のことでした。
埼玉県でガス会社は、うちが一番最初で、川越を拠点に、大宮とか熊谷も供給区域として始めたんですが、昭和恐慌もあって、会社がつぶれそうになった。(父は)大川さんから武州瓦斯の再建に入るように言われて(常務に就任、後1947年に社長)、それで現在に至っているわけです。
このように、武州瓦斯の設立のきっかけが、治水というか、郷土を守るという意志ですね。そういう精神がはっきりしているので、地域とともにガス会社というものはなければならないという考えを強く持ち、会社を経営させていただいております。
(取材2021年5月)
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