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東上線を誘致した星野仙蔵、浅草に神木銀行を
開いた神木治三郎
明治から昭和にかけてふじみ野市地域の実業家

  ふじみ野市上福岡の回漕問屋福田屋十代目星野仙蔵、同市苗間の神木三郎兵衛、神木治三郎は、経済力と名望を備え、明治から昭和にかけて地域の近代化に多大な貢献をした。星野仙蔵は東上鉄道(現在の東武東上線)の誘致に尽力、神木治三郎は東京・浅草で神木銀行を経営した。ふじみ野市の大井郷土資料館・上福岡歴史民俗資料館・福岡河岸記念館では、星野仙蔵生誕150年を記念し、「資本主義の世界を拓く~ふじみ野の経済人たちと渋沢栄一のあゆみ~」と題する展覧会が開かれた(2021125日まで)。星野仙蔵、神木治三郎に焦点を当て、紹介したい。
(以下の記事は、大井郷土資料館の長谷川義行さんのご説明、展覧会図録などにより作成しました)
 
 

 本展示は、ふじみ野市の近代化を進めるのに貢献した星野仙蔵、神木治三郎、神木三郎兵衛を中心に、渋沢栄一との関係を紹介している。

 星野仙蔵(18711917)は、新河岸川舟運で栄えた福岡河岸の回漕問屋福田屋十代目当主である。仙蔵は大正6年、47歳で死去するまで、回漕問屋経営、銀行経営、鉄道(東上鉄道)建設、衆議院議員、日本画家橋本雅邦の支援、剣道など幅広い活動を展開した。

 神木家はふじみ野市(旧大井町)苗間で代々醤油醸造業・質屋を営んだ豪農で、その中で神木治三郎(1870~没年不明)は明治時代後期に東京・浅草に神木銀行を開業した。神木銀行は当時有力な銀行で、治三郎は台東区の区史にも名前がある。

 神木三郎兵衛は治三郎とほぼ同時代の人で、大井に残った神木家の本家筋にあたる。明治22年(1889)、初代大井村村長になり、県会議員も務めた。

福岡河岸と福田屋

 福岡河岸は安永2年(1773)に幕府から公認された。問屋は当初から吉野屋、江戸屋が営み、福田屋は天保2年(1831)開業した。福田屋八代目星野仙蔵は経済力と信用を背景に明治15年に福岡村戸長に任命された。現在福岡河岸記念館として保存されている旧福田屋主屋・文庫蔵は八代目仙蔵が建てた。


福岡河岸記念館(旧福田屋)

 十代目仙蔵は、九代目の長男として明治4年に生まれた(幼名安太郎)。東京の二松学舎で「論語」などの漢学を学んだ。この時剣道に出会い神道無念流を学び後に剣道の達人となった。安太郎は明治22年、笠幡村(現川越市)の有力者発智庄平の娘登美と結婚した。明治27年、安太郎は十代目仙蔵を襲名した。


十代目星野仙蔵

十代目星野仙蔵は銀行業に進出

 十代目仙蔵は回漕業・肥料商を拡大する一方、銀行業に進出した。明治6年渋沢栄一が日本初の銀行、第一国立銀行を設立、同11年には埼玉県唯一の国立銀行として川越に第八十五国立銀行(現在の埼玉りそな銀行の前身)が設立された。近隣には次々に銀行が誕生、明治29年には第八十五国立銀行系の川越貯蓄銀行、川越商業銀行が設立され、仙蔵は川越商業銀行に経営参加した。さらに明治31年には川越商業銀行の小口預金の扱いを目的に川越貯金銀行が設立され仙蔵が発起人となった。現在川越の一番街にある市指定文化財福田家住宅の建物は同行の支店と伝えられる。

 福岡河岸の対岸、古市場河岸の回漕問屋・醤油(上本醤油)醸造業橋本屋七代目の橋本三九郎は明治17年に古市場連合戸長、明治22年に南古谷村長を務め、明治42年古市場に橋本銀行を設立した。三九郎は東上鉄道の建設に際し、星野仙蔵に協力して上福岡駅の用地を寄付するなど大きな役割を果たした。


大正10年橋本銀行店舗

 近隣の銀行としてはこの他、黒須(現在の入間市)の黒須銀行(発智庄平頭取、渋沢栄一が顧問)、現在の小川町に設立され東上鉄道建設にも関与した比企銀行など多くあった。

鉄道建設と星野仙蔵

 明治中期各地で鉄道建設ブームがあり、十代目星野仙蔵も鉄道建設に着目、関わった。明治28年の東京万世橋から川越・高崎を結ぶ中武鉄道計画(翌年却下)、同28年の東京小石川から川越街道沿いに群馬県渋川に至る毛武(もうぶ)鉄道計画(明治35年中止)、明治35年の池袋・川越間の京越鉄道計画(挫折)などだ。

 仙蔵の計画とは別に明治35年東上鉄道建設計画が始まり、翌年東京と川越を結ぶ路線の建設に着手した。明治37年に衆議院議員に当選した仙蔵は東上鉄道建設計画に積極的に関与する。同じ衆院議員であった東武鉄道株式会社の初代社長根津嘉一郎に働きかけ、明治43年に東上鉄道株式会社創立事務所が設けられ、根津は総代人、仙蔵は役員となった。


明治36年 東上鉄道当初の計画路線図(渋川から長岡まで通じる計画)

 仙蔵は埼玉県内の用地買収を担当したが、路線変更や買収価格の調整に多くの労力を要した。あわせて停車場(駅)設置を進め、経費を村内・隣接町村の寄付でまかなうことにした。仙蔵・根津の努力、沿線の有力者たちの協力によって大正3年(1914)5月1日池袋・田面沢(たのもざわ)間で東上鉄道は開通した。


大正3年(1914)上福岡駅開業の祝賀で使われた花火筒。写真のSLは実際に東上線で昭和29年まで走っていた。

東上鉄道建設に協力した地域の人々

 〇下板橋駅 内田三左衛門

 〇志木駅 井下田慶十郎

 〇鶴瀬駅 横田源九郎

 〇上福岡駅 星野仙蔵

 〇川越町駅(現川越市駅) 高橋幸助

剣道家、文化人としての星野仙蔵

 仙蔵は上京して湯島の漢学塾二松学舎に通っている時剣術に出会い、神道無念流、後に直心影流を学んだ。さらに浦和で明信館を開いていた高野佐三郎に師事、小野派一刀流を学び、明治27年自宅敷地に福岡明信館を開いた。仙蔵は川越中学(現川越高校)、川越警察署での剣術の教師も務めた。 


剣道家としての星野仙蔵関連展示

 衆議院議員として仙蔵は、武術振興を目的とする大日本武徳会の一員として、剣道の中学校正科への採用を活動の中心に据えた。明治44年に、剣道が正科となった。仙蔵の息子五郎も剣道界では著名である。

 仙蔵は美術品の収集、後援といった文化人としても活動している。川越藩士であった橋本雅邦の後援組織、「川越画宝会」に参加、尾形月耕とも頻繁に交遊があり、福田屋には多くの画集や襖戸絵が残されている。現在河岸記念館に残る楼閣のような福田屋の三階建て離れは、明治30年代に建てられ、仙蔵と様々な人たちとの会合に使われたとみられる。

水害救助と福田屋の没落

 明治43年(1910)の大水害は埼玉県で死者324人の被害が出た。福岡地域でも田畑が水に浸かり、仙蔵は倉庫から所有する米を出して被災者に握り飯を配布、舟を借りて避難を助けた。しかし同年、肥料問屋としての福田屋は廃業、財産整理が進められた。明治27年に85町あった土地が明治43年には30町に減り、多額の負債があった。


明治43年の水害時における人命救助に対し埼玉県から賞金が贈られる

 仙蔵は肥料問屋廃業翌年から鉄道建設にまい進。大正3年の東上鉄道開業にあわせて上福岡駅前に星野運送店を設立、同4年には精米麦工場を開業したが軌道に乗らなかった。仙蔵は大正6年、47歳で死去した。

 仙蔵の息子の星野五郎(13代福岡村長)、星野清次郎(7代福岡村長)を中心に、セメント瓦を製造する安美瓦紹介が設立された(昭和初期廃業)。福田屋分家は醤油味噌製造や酒販売を行い、星野幸次郎(初代福岡村長)、星野清次郎の2人の村長を輩出した。


「神木大尽」

苗間村(現ふじみ野市苗間)の神木家は代々名主などを務める有力者であった。本家四代目から分家した勘左衛門家は質屋、醤油醸造、肥料商、新河岸川舟運に携わり、財産を形成した。川越藩御用達商人として苗字帯刀を許され、地元では「神木大尽」と呼ばれた。


神木家系図

勘左衛門家四代目の忠次郎(初代)は息子とともに江戸浅草に居住した。浅草には新河岸川舟運の終着地花川戸河岸がある。五代目重右衛門は息子忠三郎とともに浅草に出店した。

神木銀行

神木銀行は明治30年(1896)から40年まで、台東区浅草の東武鉄道浅草駅・松屋浅草店の東側に店舗を構えていた。明治36年の「立身致富信用公録」によると、神木銀行は「神木一族の合名会社銀行にして自家財産の運転と地方融通の機関」とある。当時の銀行組合にも名を連ねる。頭取は神木保衛で、業務は息子の治三郎が担当していた。神木忠三郎の子孫の可能性が高い。


神木銀行のあった場所(左の建物が東武浅草駅・松屋浅草店)

保衛は東京府議会議員を務めるなど地元の名望家になっていた。治三郎は、明治3年に浅草で生まれ、西洋雑貨輸入業の後、神木銀行を経営した。大正5年の「日本の精華」に当時の全国の政財界人の一人として紹介されている。

清水建設には同社が手掛けた麹町の神木治三郎邸のカラー図面が残されている。木造2階建て、大小17の部屋が設けられ、外部は和風、内部は一部洋風を取り入れた瀟洒なデザインの住宅であった。沢村貞子の「私の浅草」には、今戸(浅草)にあった同級生である神木銀行頭取の娘さんの邸宅に呼ばれた時のことが記されてあるが、浅草の家は父保衛の代に建てられたものと考えられる。

神木三郎兵衛と苗間神明神社の境内にあるレンガ造りの燈明台

神木三郎兵衛は、勘左衛門家八代目にあたり、明治12年に苗間村戸長、明治22年に町村制施行とともに初代大井村村長に就任した。県会議員も務め、在職中は教育の振興に取り組み、教員の招聘に私費を投じ、学校用地に畑を無償貸与した。


神木三郎兵衛

苗間神明神社の境内にあるレンガ造りの燈明台は、神木三郎兵衛が建てたものと伝えられる。明治時代中頃の建設と推定され、明治20年渋沢栄一によって日本煉瓦製造が操業を始めていたことから、供給を受けていたことも考えられる。

                    (取材202111月)

 
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