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川越ゆかりの画人たちの記録・資料を伝える西澤堅さん

川越にはかつて芸術の花が開いた時期があった。市内在住の西澤堅さん(83)は祖父の故西澤良策氏とともに、川越で活動あるいは訪れた画家たちとの交流を重ね、日本画家に関する貴重な資料・記録を残してきた。特に川越出身の小茂田青樹と交遊は深い。西澤家は、「与野聖人」と呼ばれた西澤曠野や幕末に徳川慶喜の目付だった原市之進を祖先に持つ。西澤さんは、日本画に関する啓蒙活動の他、川越織物市場の保存運動、災害対策の技術開発、そして若者の起業支援まで、先祖から家訓として伝えられた人助けの実践を続ける。

(以下の記事は、2023年11月24日川越市の蓮馨寺講堂で開かれた「川越・入間地区の文人・画人展」における西澤氏の講演「川越ゆかりの画人たち」、およびその後の追加取材によって作成しました)

西澤堅さん
講演する西澤堅さん(2023年11月24日川越市の蓮馨寺講堂)

川越出身画人 淡島椿岳 内田塘景 小村雪岱 小茂田青樹

 川越は小江戸と呼ばれた商都で、文化の花が開きました。特に、料亭文化の中で日本画が珍重されました。全国どこもでも料亭文化はすたれましたが、川越には、初音屋、幸寿司、山屋、吉寅などが今でもがんばっています。

 川越出身で近代日本の美術に足跡を残した作家としては、異色画家の淡島椿岳、郷土画家の内田塘景、挿絵・舞台美術の分野で活躍した小村雪岱(戸田製麺さんが収集)、再興院展で活躍した日本画家小茂田青樹、官展系の作家として活躍した洋画家の岩﨑勝平などがいます。

 また、ゆかりの作家としては、川越城主のお抱え絵師の長子として生まれ近代日本画の開拓者として評価されている橋本雅邦。この人は和菓子の亀屋さんが収集され美術館(山崎美術館)も設立しています。日展などで活躍した勝田蕉琴や蒔絵師の柴田是真という人は今の料亭山屋さんの建物の主だった豪商横田五郎兵衛が支援していました。画家河鍋曉斎は川越の名主内田家に寄宿し、氷川神社の山田宮司さんとのお付き合いがあり、神社にかなりの奉納をしています。また美人画で高名な伊東深水は若い頃市内の馬場家に逗留している。

 東京で活躍した多くの芸術家、文人たちが川越を訪れ、川越商人は彼らの支援を惜しみませんでした。画人を支援する画会も組織され、その代表が橋本雅邦の「画宝会」、小茂田青樹の「青樹会」です。画宝会は、川越市長だった方が中心になり作りましたが、14名が川越で80名余りが東京の人。上野の不忍池の近くの料亭でいつも集まりがありました。

西澤家と日本画 小茂田青樹

 私の家で絵と関わったのは祖父の西澤良策(1883~1966)です。川越町役場に勤めていました。縁結びが得意で99組の仲人をした。勝負事は嫌いで「将棋なんかやるなら絵でも観ろ」と言っていました。父親は私が9歳の時に亡くなり、私は祖父を通して日本画と関わるようになりました。東京から画商が来る日、座敷に縄を張る。正木さんという恰幅のよい紳士が、川合玉堂とか横山大観とか小林古径とかの絵を風呂敷包みに入れて持ってくる。10人くらいの旦那衆が集まり、絵を品評して買っていく。余った絵だけを我が家が買う。

小茂田青樹(1891-1933)は、川越出身で今の一番街の中心部に生まれています。祖父が7、8歳上で絵が好きだったので小茂田さんと親交があり、小茂田さんが川越で何かやる時は必ず祖父に声をかけていました。「今晩飲もう」とか、「いい絵が書けたから売ってくれ」とか。祖父が青樹会を立ち上げ 山屋や、蓮馨寺の本堂で展示会をしていました。小茂田さんが亡くなった後も、田中青坪ら弟子の絵まで世話をしていました。 

小茂田青樹作品 川越市立美術館ホームページ

小茂田青樹は川越では最も有名な画家ではないでしょうか。青樹は絵の天才と言われた速水御舟といつも比較されます。青樹は自然と向き合って、ものを素直に描き切る。青樹の描いたクモの巣の糸を見てクモの巣はこういうものかと思います。 東武デパートで1回目の個展が開かれた時は私も呼ばれ挨拶させていただいた。川越でも2、3回展覧会が開かれています。これからも青樹に支援ができればと思っています。ただし一幅2000万以上するので、何ができるか。これまで川越で誰が小茂田さんの絵を買ったとかの記録がうちにあります。その後戦争や経済変動により商家もやむを得ず手放さなければならなかった家もあったかと思いますが、それでも大事に保有してくれているようです。青樹の作品が出たという情報をいただいたら、川越で買って残していくしかないでしょう。

日本画は日本民族の血が流れる

 多くの画家が川越を訪れ各家に泊まっては一宿一飯の恩義で絵を描いています。私の家にも、小茂田青樹以外にもいろいろな方が代わる代わる逗留しました。たとえば、宮田司山、小山大月、菊池華秋、伊藤龍涯、後藤芳仙、田中青坪、池田龍甫、塚原霊山、鈴木麻古等、橋本秀邦(橋本雅邦の息子)、金子米軒、中島清之(中島千波の父)といった人たちです。この人たちの色紙とかハガキくらいは家にみなあります。

私は小さい時から祖父と画家たちの交流を見ていて、明治から昭和初期の日本画家の名はカルタを読むように頭に入りました。誰の絵がいくらかも覚えました。これが今も楽しみになっています。日本画は日本人が心から愛する、民族の血が流れる絵です。いろいろなところでお話もさせていただき、ある時、絵の講義をしたら、五浦に行き岡倉天心、横山大観ばりに勉強しようということになり、「日本近代美術の発祥地五浦を歩く旅」を企画したこともあります。

今は昔のような旦那衆がいなくなり、趣味も分散し、日本画を見る人は少なくなりました。まして日本画を日本間にかけられないから、額装になっていて、良さがわかりにくくなった。

私の家にはたくさんの絵があり小さな美術館という考えもあったのですが、子ども達は継がないと言うので、西澤家で描いたり季節のもの以外、一部は売却して残りは寄贈しました。でも資料、知識は残っています。川越で日本画が観られたとしたらだいたい家にあった作者のものです。私にできることは限られますが、日本画をやる人がいれば支援したいと思います。

与野聖人 西澤曠野

 私の家は元々与野で、祖先に西澤曠野(1743~1821)という人がいます。「天明の大飢饉」では蔵を開けて人々にふるまい、明治以降は「与野聖人」と呼ばれています。生家は質屋だったのですが学問を好み、儒学者細井平洲の門に入り、平洲が尾張藩のお抱え学者を辞める時に後任に推薦されたが受けなかったそうです。

家の血筋にはそういう人が多く、徳川慶喜の目付だった原市之進は私の母の大叔父に当たります。原市之進は慶喜の将軍就任を取り持ち、渋沢栄一にパリ万博に行くようにと言って、その後すぐ暗殺される。大政奉還の数ヶ月前のことです。自分が行けばよかったのに。

川越織物市場

 私の家は与野から川越に参りまして私は4代目に当たります。私の曾祖父は春坪と言って川越で医者を開きました。曠野の下が蘭陵、その子が金陵。春坪は金陵の長男ですが、南古谷の奥貫友山がやはり細井平洲に学んでおり奥貫さんを知っていて川越に来たのではないかと考えられます。

春坪の弟が慎吉です。当時川越に中島久平という有力な商人がいて製糸会社を経営しており、中島商店の番頭が西澤慎吉で実質的な経営者でした。製糸工場について、杉崎一雄さんという方が著書で「埼玉県下製糸業の始め」と書かれています(『川越の町―歴史に埋もれた人々』)。その後中島商店は市内六軒町に武陽社という大規模織物工場を開きました。武陽社は、今回再生され来年オープンする川越織物市場の有力な株主でした。こうした縁から、私は織物市場の保存活動に携わりました。

川越織物市場記事

祖父の良策は川越町役場の戸籍課長で99組の仲人をした。父親は埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)に勤めていて私が9歳の時亡くなった。母親は0歳で亡くなり、私はすべて祖父と祖母の考え通り育ったので、今も古い考えの人間です。

西澤の本家は今も与野にあります。しかし歴史書を見ると「西澤家は明治以降振るわず」と書いてある。それ故か親族同士でも祖先の話は出ませんでしたが、杉崎さんという人が西澤が埼玉県で初めて製糸業をやったという本を出してくれたので、私も数年前から西澤家の話をし始めました。孫と子どもにも、与野の寺とか石碑とか、水戸の母方の墓を見せたりして歴史を教えています。

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自分がどうやって生きてきたか、還暦でサラリーマンを辞める

私は国際航業という会社に勤めていました。国際航業は人間のトラブル以外何でも調査・企画するコンサルタント会社です。たとえば高速道、新幹線の路線はどうするか、ダムは造るべきかどうか、など。私は、そこの企画本部長みたいなことをやっていた。ところが平成元年に国際航業株事件というのがあり、社内がゴタゴタした。それで60歳の時に役員だったが退任して、サラリーマンから脱却しようと、自分の会社を3社持ちました。退職金で2社(写測、Gis)を買って、1社は自分で作った。それが今残っているエムアイメイズというシステム開発の会社で23年目になります。

 それからは、地元へ貢献しようと、織物市場の保存活動や川越祭りのフォーマット作りなどに取り組み、ロータリークラブにも入れていただきました。また自分の趣味としては日本画の整理を行ってきたわけです。

災害時に人を探す技術の研究

私が国際航業にいた時から考えていた、様々な社会的課題に対するシステムの開発にも取り組んできました。特に防災に力を入れていきたいと考え、平成18年度に消防庁の補助で災害時に行方不明者を探す技術を大学の先生の協力を得ながらうちの会社(写測)で研究した。ただ予算の継続ができず、東日本大震災で実用化することはできなかった。これは引き続き追求していきたいテーマです。

災害時にガレキ下の生存者を探す技術の研究報告書(平成18年)

 他に、ナビゲーション、インフラ、ドローンなどのテーマが気になっています。これだけは日本ががんばって研究しないと行く末が案じられます。私はあと生きられる間に、日本が世界に伍して生き抜けるように、あらゆる科学技術と調査をまとめるコンサルタントの方向について次代に何かを伝えられればと思っています。

トラブルにあった仲間を助ける

私は先祖からの言い伝えとして3つ言われており、1つは古着(着ているもの)を大事にしろ、それと薬類、そして健康を保て。3つ目はいざという時人に施すこと。特にトラブルのあった仲間の中に入っていって解決してやれ。その点、私は得意なんです。どういうわけか血筋で。

 生き方の一つとして、これまで習得した知識は後輩に教えてやった方がよいと思います。今でも、会社が困ったという若い人とか、どうしたら会社がうまくいくかとか、そういう人については、すべてお話を承って、サジェスチョンすることをやっています。

(株)エムアイメイズ

立ち上げた(株)エムアイメイズは、日本で初めてレンタルオフィスを作り、今でも起業家の方を中心に何社かに貸しています。ITと防災に力を入れ、システム開発は生活に役立つ金融・証券・保険を中心に、防災は地方自治体にソフト「ヒビソナ」(日々、備える)を提供しています。若い人が能力を発揮し社会に貢献する会社を目指しています。

エムアイメイズ ホームページ

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