根津嘉一郎は朝霞の根津公園を建設する数年前、同じく社会貢献事業として根津育英会を設立、初の私立の七年制高等学校として武蔵高等学校を開設した。武蔵中学・高校・大学は現在に至るまで私立の有力校として評価され、国に接収された根津公園の敷地の一部は戦後武蔵学園に払い下げられ学校施設として使われている。武蔵学園の歴史について、根津育英会武蔵学園・学園記念室長の井上俊一さんにご説明いただいた。
教育で社会貢献するため大正10年私財を投じて育英会を設立
武蔵学園の創立者根津嘉一郎氏は大正10年(1921)、私財360万円(現在の500~600億円に相当)を投じて財団法人根津育英会を設立し、初代理事長に就任。翌年、武蔵高等学校が開校しました。初の私立の七年制高等学校でした。
根津氏は1909年に渋沢栄一を団長とする渡米実業団に参加し、アメリカでは資産家が公共事業に巨額の寄付をしていることを知り、自分も社会のために力を尽くしたいと考えました。かねて事業上密接な関係を持ち信頼する間柄の宮島清次郎氏(元日清紡績社長)、正田貞一郎氏(元日清製粉社長、美智子上皇后の祖父)らと相談し、当時高等教育の拡大・充実が差し迫った国家的要望となっていたことから高等学校を開設するという構想を固め、具体化しました。後の「根津公園」も僧侶を育てることが主たる目的でしたので、教育事業という点で武蔵学園と共通しています。
独自の教育方針
大正11年に開校した武蔵高等学校は、たとえば理科の場合単に教科書を読むのではなく観察や実習を重視するなど独自の教育を行いました。第一回の入学試験には、3枚の葉っぱを見せ、これを観察して違いを書きなさいという問題もありました。こうした教育方針は、創立以来現在も生きています。
新制武蔵中学と武蔵大学は、昭和24年(1949)に開設されました。大学の初代学長は哲学の宮本和吉氏、経済学部長は鈴木武雄博士でした。大学と中高を統括する学園の初代学園長は、正田健次郎氏(美智子上皇后の叔父)で、学園長になってから教諭の免許を取り中学の教壇に立ちました。
根津公園跡地の払い下げを受け朝霞グランウンドとして整備
朝霞グラウンドは、根津公園の跡地です。公園敷地が陸軍の士官学校用地に接収され、終戦後アメリカ軍の借り上げになり、それが国にまた返還されたのを大学の施設を造るから払い下げてほしいと申請したという経緯があります。1964年約2万坪の払い下げが認められ、1968年グランウンドとして整備しました。現在は、グラウンドの他、武蔵大学朝霞プラザ(学生寮、クラブハウス)があり江古田の校舎との間をスクールバスが運行しています。
文化財指定の大講堂
武蔵学園記念室がある大講堂は1928年、根津嘉一郎氏が建設し学校に寄贈しました。設計は大隈講堂や日比谷公会堂を手がけた佐藤功一です。関東大震災の直前1923年に完成した 「コ」の字型の建物である武蔵大学3号館とともに練馬区登録文化財に指定されています。記念室は、武蔵学園に関わる資料を収集整理・保存し、広く学内外に公開展示していくため平成6年に開設されました。
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