今は高層住宅が建ち並び緑豊かな公園が広がる練馬区光が丘。ここに戦時中、首都防空のための基地、成増陸軍飛行場があった。飛来するアメリカの爆撃機B29を相手に、捨て身の特攻作戦も行われ、犠牲者が出た。飛行場跡地は戦後、進駐米軍用住宅グラントハイツを経て、大規模団地に生まれ変わった。板橋区在住の郷土史家、山下徹さんは成増飛行場の歴史とそこに勤務した人たちについて詳細に調べ、『タローの飛行雲―成増陸軍飛行場記―』という本を著わした。山下さんに飛行場の歴史についてうかがった。
帝都防空のための飛行場、昭和18年に建設
―成増飛行場は何のために造られたのですか
山下 帝都防空です。昭和17年(1942)4月18日、米空母から出撃した爆撃機により東京が初空襲(ドーリットル空襲)を受け、その時防空飛行場の建設が決まりました。
―成増に決まったのはいつ。
山下 文書は残っていないのですが、成増飛行場を守るための下赤塚高射砲陣地が置かれたのが17年の12月ですのでその時には決まっていたことになります。
―場所はどのあたりですか。
山下 高松町、現在の練馬区光が丘一帯と板橋区赤塚新町の一部で、①土地が平坦で人家が少ない②朝霞の陸軍士官学校など川越街道沿いに軍事施設が点在していた③皇居上空へ戦闘機が3分以内で到達可能―などから選ばれたと考えられます。
―建設は。
山下 本格的な建設は昭和18年8月から始まり、10月末には戦闘機の離発着ができるようになりました。昼夜問わずの突貫工事で行われ、陸軍工兵隊を始め豊多摩刑務所の受刑者や24時間3交代で働く労務者(朝鮮人労働者集団を含む)の他、民間の工場などで組織した産業報国隊、動員学徒、近隣住民による勤労奉仕などを含め数千人規模の人員が動員されました。中には小学校高学年の子どももいたそうです。
南北1800mの主滑走路、54機
―どのくらいの大きさの飛行場だったのですか。
山下 南北1800mの主滑走路、東西1500mの補助滑走路を備え、周辺に高射砲陣地(練馬、赤塚)、南北探照灯、東西誘導電波送信所などを配置していました。
―東京の防空基地は他にもあったのですか。
山下 調布(1941年開場)、松戸(40年)、柏(38年)と成増で、司令部は調布にありました。
―成増飛行場の飛行機の数は。
山下 定数は54機、基地には約1300人が収容されていました。主力は飛行第47戦隊約650名です。
最新鋭の陸軍戦闘機鍾馗をそろえた47戦隊
―47戦隊とは。
山下 昭和17年、帝都の防空戦隊を編成するため最新鋭の陸軍戦闘機二式単戦鍾馗をそろえた第47中隊がベトナム方面から内地に戻され、翌18年10月に新造の成増飛行場を根拠地とする飛行第47戦隊に改変されました。陸軍の主力戦闘機は19年に四式戦疾風に変わります。成増では20年1月に機種改変が完了しました。
―最新鋭の戦闘機で敵機を迎撃するのが任務だったわけですね。
山下 そうです。
「震天制空隊」、B29に特攻攻撃
―それが特攻に変わる。
山下 昭和19年11月1日、米軍が空襲の準備のためにB29写真偵察機を東京上空に飛ばす。関東各地から戦闘機が迎撃に向かうが1万メートルの高空を飛行するB29に近づけなかった。その時フィリピンではすでに神風特攻も始まっており、機体を軽くして体当たりするしかないことになります。軽くするため、武器は積めない。酸素ボンベすらない。
―それが「震天制空隊」。
山下 名前は後からついた。隊員から最初は11月8日に4名選んだ。三鷹の中島飛行機工場への本格的な空襲が11月24日から始まり、その時銚子上空で見田義雄伍長という19歳の空中勤務者(海軍は「搭乗員」と呼ぶ)がB29に体当たりし、撃墜はできなかったが、隊列から遅れたところを他機が攻撃して落とした。それを軍部は特攻の戦果とし、増員。その時に「震天制空隊」という名前がついたのです。
―それからは特攻が継続した。
山下 「敵機来襲」と放送が入ると最初に震天制空隊が飛び立つ。
成増だけで6名が体当たり
―特攻でどのくらい戦果を上げたのですか。
山下 成増だけで6名が体当たり、1名は生還した。5名のうち2名は震天制空隊員ではない。そこにいろいろな物語がある。粟村尊准尉は47戦隊最古参の空中勤務者で新入隊員の訓練指導も務め、B29は射撃で落とせるとし特攻に反対していた。昭和20年1月9日、銚子沖で乗機のプロペラでB29の垂直尾翼を破壊、回転して馬乗りになり一緒に墜落、粟村准尉は落下傘降下するが海上に着水、未帰還となりました。
成増飛行場取材で元特攻隊員にも会う
―出版された『タローの飛行雲』でも、成増飛行場での勤務者の個人名、行動を実に詳細に記されていますが、どのように調査されたのですか。
山下 私は昔から戦記雑誌「丸」とか、いろいろ資料を見ていました。成増飛行場に関しては関係者に実際にお会いして取材しました。本は成増飛行場80周年として仕上げました。
―空中勤務者の生き残りにも会われたのですか。
山下 会いました。最後にお会いしたのが5年前に釧路で当時98歳の方でした。ほとんどの方は10年くらい前に亡くなり、今は存命の方はおられないかもしれません。
―終戦時に、特攻隊はどうなったのですか
山下 昭和20年2月以降、米軍小型戦闘機が大挙襲来、防空戦隊は戦果も挙げたが損失も多く、47戦隊は防空任務からはずれ、対機動部隊攻撃を任務とする第六航空軍の隷下に入ります。そこで米艦船への特攻攻撃を行う振武隊が編成されます。最後は自殺機として名を残すことになる「キ-115剣」も使用する予定でした。47戦隊は、5月27日以降成増飛行場を離れ都城東飛行場に進出。九州に行ってからベテランはほとんど戦死してしまいます。
自殺機「キ-115剣」
―「キ-115剣」とは。
山下 特攻専用ではないが、結果的にそうなってしまった。資材不足で簡単な構造にしたので、機体もブリキと木で造っている。飛び立ったら車輪は落とし帰ってきたら胴体着陸。機銃もない。乗る方にしてみたら自殺機です。昭和20年3月に試作機ができたが、実戦に使用はされませんでした。
―成増飛行場を舞台にした空の特攻という悲惨な歴史から教訓は何でしょうか。
山下 本のあとがきにも書きましたが、取材の中で元制空隊員であった方は「絶対に戦争はダメだ」と言われました。死んだ人間は生き返らない。答えようがないですが、これから世の中が間違った方向に向かわないように願うばかりです。
跡地に駐留米軍用住宅グラントハイツ
―成増飛行場跡地には、戦後進駐米軍用の住宅グラントハイツが建設されるわけですね。
山下 成増飛行場は昭和20年9月21日、進駐軍により接収されました。進駐軍で、建物や住宅の接収・建設に当たったのが、マッカーサーの副官だったヒュー・ケーシー少将で、占領軍家族住宅として最初にワシントンハイツ(東京・代々木)、続いて成増飛行場跡地に造ることを決めました。昭和22年4月から工事開始、23年6月に完成。180㌶の広大な敷地に約1300戸の住宅が建ち、18代米大統領の名をとってグラントハイツと名づけられました。
ケーシー(啓志)線はケーシー親子が建設に関わる
―東上線から分かれてグラントハイツに向かうケーシー(啓志)線という線路があったのですか。
山下 元々は昭和19年4月に上板橋駅から今の練馬自衛隊基地のところにあった造兵廠の倉庫まで線路を建設しました。その倉庫線をグラントハイツまで引っ張ったのが「ケーシー線」で、米側ではグラントハイツ線と呼んでいました。
―どうしてケーシー線と呼ばれたのですか。
山下 いろいろ誤解があります。ケーシー少将が造ったからという説と、ある資料にはケーシーという若い中尉が造ったからとある。ずっと不思議だった。ケーシー少将は工兵隊司令部のトップ、一方ケーシー中尉は20代前半。実は二人は親子。ケーシー中尉はグラントハイツ建設の現場監督の一人になる。もしかしたらケーシー少将が息子に経験を積ませ早く出世させるためにやらせたのかもしれない。しかしケーシー中尉は結局朝鮮戦争で死んでしまいます。
―その後、グラントハイツは縮小、返還されます。
山下 きっかけは朝鮮戦争で、入間基地、横田基地が主力になって住民が移動していきました。昭和30年代半ば頃には住む人も少なくなります。ケーシー線も昭和34年に正式に廃止されます。
東京区部最大の団地光が丘団地
―グラントハイツは昭和48年に全面返還。その跡に、昭和56年光が丘公園がオープン、東京区部最大の団地光が丘団地ができて58年に入居が始まります。このような大規模な住宅地(現在の光が丘1~7丁目の人口は2万6000人)・緑地を造ることができたのは成増飛行場があったおかげともいえます。
山下 そういう言い方もできますが、前は恨んでいる人がいっぱいいました。先祖伝来の土地を取上げられた方もいる。光が丘公園には平和祈念碑が建っていて、碑に飛行場のことも書いてあります。成増飛行場の戦友会「成増会」では単独の碑を造りたいと願っておりましたが、現在の住民の方としては特攻で死んだ人がいるなど悲惨な過去に触れてほしくないのではないでしょうか。
板橋が趣味
―山下さんが成増飛行場をここまで力を入れて調べたのはどうしてですか。
山下 うちの父親は勤労動員で成増飛行場の工事に行っているんです。しかしそれがきっかけではありません。私は元々生まれも育ちも板橋で、特に交通と戦史に興味があり、板橋を趣味にしようと30年前に誓い、ブログ(「板橋ハ晴天ナリ」)を立ち上げました。
―地域に対する思いがそれだけ強いということですね。
山下 私はバブルの時代アメリカで働いていたのですが、その時に、生まれ育った板橋が自分の故郷だと意識したんです。バブルが終わる頃帰国し、板橋区の遺跡の発掘調査に参加もしました。志村の凸版印刷工場の現場で縄文前期の住居跡を最初から掘り上げた。その時空を見上げて、ああ、4000年前の板橋の人も同じ空を見ていたんだと思い感動し、歴史を感じ、地域のことをもっと知りたいと。
板橋は古代から住みやすい場所
―今の板橋は住宅ばかりで歴史を感じさせません。
山下 自分達が子どもの頃の赤塚地域は茅葺きの屋根の家があったし、高島平の団地もなかったし、開発される前はど田舎でした。しかし、遺跡の発掘調査から言えることは、縄文とか弥生の時代は住宅地だった。もっと古く旧石器時代から人が住んでいた。特に縄文時代は舌状台地、海にせり出す武蔵野台地のへりに位置し、とても住みやすい場所だったのです。
―ブログを書かれるほか、資料を収集されている。
山下 私は基本的に収集が趣味です。収集物を調べてブログを書くことが多いです。子どもの頃から収集癖があっていろいろなものを集めていました。今、数千点はあるかもしれない。紙もの、写真類が多い。自分が死んだら8割から9割くらいは板橋や練馬の資料館が喜んで引き取ってくれそうなものを選んでいます。
ブログ「板橋ハ晴天ナリ」http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/
『タローの飛行雲―成増陸軍飛行場記―』ご希望の方はezz01255@nifty.comまでご連絡ください(本体価格1200円)。