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 文武にすぐれた戦国武将難波田弾正その子孫は江戸期には旗本難波田家、維新で戊辰戦争にも参加 
難波田氏800年の歴史

   戦国時代の武将である難波田弾正善銀は、現在の富士見市南畑にあった難波田城を拠点にしていたとされる。難波田氏は源平合戦で活躍した金子十郎の一族を祖とし、難波田弾正の子孫は江戸時代には旗本になり、現在に至るまでいろいろな分野で活躍している。今年は鎌倉幕府の全国支配が確立し難波田氏が成立するきっかけになった承久の乱(1221)から800年にあたる。難波田城跡に建つ難波田城資料館の開館20周年でもあり、同資料館では難波田氏一族の歴史を紹介した「難波田氏とその時代」展が開かれている(2021613日まで)。同資料館の早坂廣人(ひろひと)館長にご説明いただいた。

難波田氏の由来

金子郷(現在の入間市)を本拠とした金子十郎家忠は武蔵武士でも剛の者として知られ、平安末期の源平の戦いで活躍しました。家忠の甥と思われる金子小太郎高範は承久の乱(1221)で亡くなります。戦功に対する恩賞として難波田の土地が子孫に与えられ、それで難波田氏が成立したと考えられています。

  金子十郎記事はこちら

難波田氏の登場

「難波田」という文字が初めて歴史に登場するのは1350年から52年にかけて起きた観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)という戦乱においてです。この乱は足利尊氏とその弟の直義(ただよし)の兄弟げんかの一幕ですが、尊氏側の高麗(こま)一族が羽祢蔵(現在の志木市羽根倉)で荒川を渡ろうとするときに難波田九郎三郎という人が立ちはだかって合戦になりました。高麗方が勝ち、九郎三郎は亡くなりました。

難波田城

 難波田城がいつできたか。1987年に難波田城跡の中心部を調査したところ、戦国時代の初め頃の建物の跡が見つかりました。その頃関東地方でも戦国時代の戦乱(享徳の乱・長享の乱)が始まっており、難波田城は戦国武将としての難波田氏につながると考えられています。難波田城は全体で5万平米、東京ドームくらい。天守閣のような建物はこの時代にはなく城にとって大事なのは敵を防ぐ水堀や土塁です。中心はおそらく平屋の建物だったと思われます。やはり中心に近いところから戦国時代のお墓が見つかり、鎧通しと六文銭が副葬されていました。

 


難波田城跡発掘時


現在の難波田城公園

猪苗代兼載の連歌

 猪苗代兼載は戦国時代の連歌師です。その人が残したと推定される「難波田千句」という句集があります。兼載は難波田に来たことがあり、難波田城は連歌を詠むという舞台にもなりうる場所だったのかなと推定されます。

<難波田氏の躍動:戦国時代後期>

難波田直経 

1510年頃難波田直経という人が川越の北院(喜多院)に向けて手紙を書いています。「洪水で不作です。お知らせします」という内容。直経は喜多院の領地を管理しており、そこは水害に遭うような場所だったとわかります。

難波田正直 

次に越生の報恩寺の年譜で、1520年に難波田正直から田んぼを寄付されたとあります。

難波田弾正・難波田弾正善銀 

難波田氏で一番有名なのは弾正善銀で、戦国時代のことを江戸時代に綴った物語に登場します。弾正は、本来は朝廷から与えられる官名ですが、当時のならわしで正直も善銀も勝手に弾正と名乗っています。難波田正直と難波田善銀は、同一人物であるとする説とそうでないとする説があります。

難波田氏は河越城を拠点とする戦国大名扇谷上杉氏の筆頭の家臣としての地位を築いていました。小田原北条氏が次第に扇谷上杉氏の領地を奪い、最後に扇谷上杉は滅亡してしまいますが、難波田善銀は、それを何とか食い止めようとがんばった忠義の心あつく文武を兼ね備えた武将として描かれています。

1530年前後、北条氏が江戸城を奪い、それを扇谷上杉が取り返そうとする動きの中で弾正左衛門尉の名で品川のお寺を保護する文書を出しており、扇谷の司令官のような役割を果たしていたことがわかります。

 難波田弾正善銀の名は1538年にも報恩寺に寄進の記事があります。

松山城歌合戦

 松山城の城主だった難波田弾正善銀は後に書かれた物語で大活躍します。1537年に河越城が落城し善銀がとりあえず残った兵を集めて松山城に引き上げようとした時に北条方の侍(山中主膳)に和歌で呼び止められました。内容は「なんでそんなに逃げるのか」と。それに対して古今和歌集にある「君をおきてあだし心をわれもたば末の松山波もこえなん」(扇谷上杉の主君朝定を城に残して弾正が城外で討たれたならば寄せる浪=小田原勢が松山城を越えて行くだろう)と返した。こういうエピソード(松山城歌合戦)が伝えられるということは、昔の人たちにとって善銀は文武を兼ね備えた武将だというイメージがあったからだと考えられます。

扇谷上杉は、河越城を取り戻そうと、仲が悪かった山内上杉とか、北条氏と婚姻関係にあった古河公方まで善銀が説得し、反北条の包囲網を築きました。それが1546年の河越合戦。北条軍は、西側の今川義元に対しては言い分を認めて講和し、河越防衛に全力を傾けます。この合戦は北条軍が大勝利で、ここで難波田善銀は亡くなります。

北条氏所領役帳と難波田与太郎

 北条氏は扇谷上杉を滅ぼし山内上杉を越後に追い、関東制覇を目前にしました。しかし越後を仕切っていた長尾景虎(後の上杉謙信)が逆に関東に攻めてくるということで、北条氏は自分たちの家臣の領地や軍役の台帳(北条氏所領役帳)を作りました。そこに難波田が2人出てきます。1人が難波田与太郎です。松山城の城主上田朝直の配下で善銀の後継者とみられます。難波田郷の隣の棟岡(志木市宗岡)が領地とされており、元々の難波田氏所領の一部が与えられたようです。もう1人興味深いのは難波田後家という名。善銀あるいはその子の妻とする説が有力です。

難波田憲次

松山城主は上田氏でしたが、豊臣秀吉の小田原攻めの際城主を含めトップクラスは小田原城に集められていました。松山城を代わりに守っている武将の筆頭に難波田憲次(のりつぐ)という人が出てきます。松山勢は大軍を前に降伏しました。憲次は与太郎と同一人物とする説もあります。

秀吉から関東を任された徳川家康は同地で活躍した武将の子孫を自分の家来にしたがり、憲次にも声をかけましたが憲次は自分は辞退し息子をと紹介、ここに旗本の難波田氏が成立しました。

南畑八幡神社の鰐口

 富士見市の指定文化財になっている南畑八幡神社の鰐口は数奇な運命をたどっています。鰐口は神社やお寺の軒先に吊されている鈴・鐘のような道具です。いつ誰が何のために寄進したかということが文字で刻まれています。南畑八幡神社のものは表と裏と2回彫られています。最初室町時代に中山大明神というところに奉納されたものが、その後に持ち出されて、「難波田与太郎」が小(正)代(今の東松山市)の八幡神社に再奉納したのです。ちなみに、正代は現役の大関の名で熊本出身ですが、鎌倉時代に東松山の正代から移った一族と言われています。さらにこの鰐口で面白いのは、明治時代に新潟県のお寺にあったのが見つかりました。東松山からまた戦のために持ち出されたのです。鰐口は戦の際合図の鐘として使われます。新潟ということは、越後の上杉軍がたぶん持っていったのでしょう。明治になり文字をよく読むと南畑にゆかりがあるということで戻されたのです。さらに太平洋戦争の時いったん金属供出に出されるが大切なものということで返されました。戦のたびに動いているが、生き延びている。難波田氏も、戦のたびに負けているが、滅びずにずっと生き長らえており、通じるものがあります。

                難波田八幡神社の鰐口

江戸時代に旗本になった難波田氏

 憲次は家康の誘いを辞退しましたが、その子、憲利は徳川秀忠に仕えました。憲利には長男憲吉、次男憲長、三男憲頼の3人の息子がおり、それぞれの子孫が旗本になっています。旗本難波田家は3つの家があり、代々「憲」という字を使っています。石高はそれほど多くありませんが、大政奉還まで着々とつながり、家は今も続いています。長男家の領地は茨城県にありました。

徳川慶喜に仕えた別の難波田氏

河越合戦で難波田善銀が討ち死にした後、難波田城は小田原北条氏の家臣の上田周防守(松山城主であった上田氏との関係は不明)が城主になりましたが、北条氏が滅ぶと廃城となりました。江戸時代に難波田城の跡に修験道の十玉院というお寺が置かれ、院主を代々務めた上田氏は城主だった上田氏と同族と伝わります。上田氏の一人、直次郎は幕末に一橋家に仕え、その時名字を「難波田」と名乗りました。直次郎は下南畑に戻りますが、子の省三が一橋家に引き続き仕え、慶喜が将軍位に就くと幕臣になりました。幕末の争乱の中で慶喜が大政奉還し謹慎している時に慶喜を守ろうと彰義隊に参加しています。省三は生き延びて、徳川家の家来として静岡についていきます。

戊辰戦争に難波田氏が関わる

 旧幕府方には彰義隊として上野にこもって戦うほか、関東各地の自分たちのゆかりのある場所で再起を図ろうとする人もいました。渋沢栄一一族の成一郎は飯能で戦争しています。旗本難波田氏の三男家の当主であった千代虎という人が慶応4年(1868)同志十数名と下南畑に現れました。難波田弾正と名乗り村人に軍資金を募りましたが、よい反応はなく、知らせを受けた官軍が飯能に行く途中に立ち寄って、千代虎たちは捕らえられ処刑されてしまいます。千代虎たちを弔うため下南畑の興禅寺には地蔵像が建てられています。


興禅寺地蔵像(展覧会図録より)

明治時代北海道で活躍した難波田憲欽とその子龍起

 旗本の次男系の10代憲明の弟の憲欽(のりよし、1857-1936)は開成学校を中退し職業軍人となり西南戦争に従軍します。その後北海道開拓を志し、屯田兵の隊長になり旭川で部隊を率いて河川改修などに取り組みました。その功により当地には難波田(なんぱた)川、難波田橋という地名が残っています。日清、日露戦争にも出征、その後教師として勤めました。


(展覧会図録より)

 その息子が画家の難波田龍起(たつおき、1905-1997)です。憲欽は自分は軍人だが子供には好きな道を選ばせたのです。龍起は代表的な抽象画家で文化功労者に選ばれました。龍起の息子は3人いて、画家で有名なのは次男の史男ですが、若くして海に落ちて亡くなりました。

難波田氏一族の会

 難波田(なにわだ)春夫(1906-91)は北陸に行った難波田家の子孫で東京帝国大学などで教鞭をとった経済学者です。難波田氏の子孫としては他にも、作家の難波田節子(1933~)、その兄で画家の元(1930~)、2人の姪の音楽家吉岡しげ美(1949~)、春夫の親戚で考古美術の研究家難波田徹(1941-95)、フットサル元日本代表難波田治(1977~)らがいます。

 難波田氏の一族の方が集まり1973年難波田弾正一族の会が開かれました。難波田氏を研究していた大図口承という方が提案し実現しました。

       (取材20214月)

 
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