広告

財政破綻を乗り切った 七分積金

東上線大山駅近くにある東京都健康長寿医療センターは渋沢栄一が貧民救済を目的に創設し長く院長を務めた養育院からつながる。この養育院の建設には江戸幕府の老中松平定信が寛政の改革で設けた「七分積金」の資金が使われた。「七分積金」は100年近くたった明治維新時の財政の助けとなったのである。

(以下の記事は五味秀夫氏のコラム「多摩平の風」(第951号、2021年6月10日)を再掲載させていただきました)

寛政2(1790)年、松平定信は江戸市民の貧窮化を防ぐため、過去5カ年の町入用(町の経費)をすべて書き出させて徹底的に洗った。町火消しや寄り合いや祭礼費の節約、事務の簡素化、人員の削減を考えた。勘定奉行、町奉行と協議の結果、大胆に削り、さらに節約額の10分の7を積み立て、それを手掛ける町会所を設立した。積金は節約額の7割を充てたことから、「七分積金」と呼び、貧民救済に充てること決めた。

七分積金は窮民の救済と飢餓のときの貯蔵籾に使われた。地主から選ばれた5人が金銭の出納を担当、与力、同心が監督官となった。積み立ては年額で2万両になった。大災害、大量の病人発生時や飢餓、さらに幕末の大動乱のときに江戸市民を救った。無宿浮浪人や罪人は収容所で油搾りや牡蠣殻灰つくりなどで賃金を得たほか、職人の技術を身につけて社会復帰させた。

町会所は勘定方や町方役人ではなく、基本的には町人らに運営を任せた。文政4(1821)年、風邪の大流行のさいは29万7000人に一時金を支給、天保年間の米の高騰や風邪の大流行には数10万の窮民に囲米や積金を放出した。七分積金は低利融資も手掛け、授産所の役割も果たした。

幕府の財政がいかに困窮しても、決して七分積金に手を出すことはなかった。徳川幕府の崩壊で、明治2年(1869年)に町会所と七分積金制度は廃止となった。巨額の積金は明治政府に引き継がれ、町会所は東京会議所に発展した。

貯まった積金は143万円(現在の36億7000万円)で東京市の公有金となり、この資金で両国橋など4大橋の架け替えができた。東京府庁、商業講習所(いまの一橋大学)、養育院、さらに青山墓地、谷中墓地、銀座のガス灯、鉄道馬車にも使われた。主導したのは政府と財閥に距離を置く渋沢栄一だった。

日本はG7で断トツの借金大国で、国民の閉塞感も強い。新型コロナがそれに拍車をかけた。衰退日本に警鐘を鳴らす東電会長内定の小林喜光氏、ソフトバンクの孫正義氏、ユニクロの柳井正氏が旗を振って、令和版七分積金を柱とする日本再生プランをまとめ、眠れる官邸に檄を飛ばしてもらいたい。

●財政はステージ4でオペが待ち

コメント

タイトルとURLをコピーしました