上福岡、大井地区(現在のふじみ野市)は以前、ほうきの産地だった。今は、ほうきを使う人は少なく、ほうき生産は消滅寸前だ。今もほうき職人を続ける永倉一男さん(74)に、お聞きした。(取材2011年)
昭和30年代がピーク
―永倉さんのお宅はいつからほうきを。
永倉 親の代からです。親父が独立したのが昭和16年ごろです。私は昭和27年ごろから親父と一緒に始めました。
―このあたりは、ほうき作りが盛んだったそうですね。
永倉 昔はこの辺もほうきやっている人がいっぱいいました。上福岡だけでも30軒近くいたんじゃないかな。農家の冬の仕事に向いていた。ほうきは元々は農家の副業で、農業もやりながらだよね。元々は東京の練馬が始まりと言われ、それを大井(今のふじみ野市)の内田さんという兄弟が修行してこの辺に伝え、広がったと言われています。
―ほうきつくりが盛んだったのはいつごろまでですか。
永倉 昭和30年代くらいではないか。
―ほうき草も作っていたのですか。
永倉 自分でも作っていたし、周りの農家も作っていた。職人を1人抱えると300貫(約1トン)必要だよと言われた。仕事をするのは半年間です。
ほうき草がない
―今はほうきやる人はいなくなった
永倉 後を継いだ人はいたけれど皆途中でやめちゃったんです。この辺は(町の)発展も早かったし、流通が変わってきた。昔は農家の仕事のないときに作って、問屋さんが在庫を抱えたんです。問屋さんが在庫を持たなくなって、農家が忙しい時でも注文が来てしまう。受けられないから、農家専門になったり、サラリーマンになったりで、職人が減ってしまった。
―残っている職人は何人くらい。
永倉 本当の職人はそういないでしょう。埼玉では私ともう一人くらい。第一材料がないんです。ほうき草は農家が作らなくなって、最初は台湾に種を送って作っていたが、その後インドネシアとタイに移った。今はうちでもインドネシアのを使っています。しかしコンテナでないと送ってくれない。糸もはっきり言うとないんです。
―今スーパーなどで売っているほうきは。
永倉 今市販されているほうきはほとんどすべて輸入品で、インドネシアとタイから。元々向こうにあるものではなく、こちらで教えて作らせているんです。
デパートで職人展
―永倉さんは販売はどうされているのですか。
永倉 今、荒物屋さんはない。問屋さんもいないから自分で作って自分で売らないと商売にならなりません。うちは今、デパートの職人展というのが多い。直接売っているんです。1年の3分の2は外へ出ています。
―どんな種類のほうきを売るのですか。
永倉 いろんなのを持っていきますが、場所によって違いがあります。東北、北海道は長いのはほとんど売れないです。長いのが売れるのは関東と関西です。埼玉のほうきは昔はほとんど東京、関西方面に出ていたんです。形も昔は場所によって決まっていた、東北は蛤型でないとなかなか売れなかった。
―お客さんは実際に使っているんでしょうか。
永倉 実際に使ってもらっています。うちのなら10年くらいもちます。
―掃除機に比べた利点は。
永倉 掃除機は畳を痛めるんです。ほうきはそんなことはないし、静電気がおきない。でも、若い人はほうきは使わないですから。
―値段は。
永倉 ピンからキリまでありますが、うちあたりいいもので1万8000円くらい。岩手産などでは50万、100万というものもあります。
―小さいのは。
永倉 小ほうきは、昔から「荒神ほうき」と言って、神棚などに使いました。これなら1500~2000円程度です。
―輸入品の値段は。
永倉 スーパーなどで売っているのは数百円でしょう。
自分の手で形を作る、4年で一人前
―ほうき作りの難しさは。
永倉 一本一本麻糸で編みつけていくんですが、設計図がないから、全部自分の手で形を作っていかないといけません。基本からやっていないとできません。
―1本作るのに、どのくらいの時間がかかりますか。
永倉 品物にもよるが、仕上げるだけなら2時間もあればできますが、乾燥したり、平均すると1日5~6本というところです。
―柄は。
永倉 竹は専門で竹屋がいたんですが、今はいない。昔は竹に模様をつけていましたが、それも技術が消えてしまいました。飾りも子どもの小遣いかせぎや内職で作る人が周りにいたんです。昔は分業でしたが、今は誰もいないから全部自分でやるようになっています。
―そもそもほうき作りはどのくらいの修行がいるのですか。
永倉 昔は3年修行して1年お礼奉公し4年で1人前と言われましたが、実際はそれだけでは食えませんでした。いろいろな形があったから。相撲取りの又割りのような形で座って膝を使ってやる仕事です。今の人は辛抱ができないんじゃないかな。
―根気がいりますね。
永倉 ほうきだけでなく、手作りの職人は本当に少なくなっているよね。
後継者はいない
―永倉さんが続けられたのは
永倉 結局、われわれは半端な年になり、サラリーマンになるわけにもいかなかったんです。うちの場合は割合注文が続いたので食べていくことができたこともあるでしょうね。
―後継者は。
永倉 同業者は誰も(子どもに)やらせていない。材料もないし、食べられませんから。
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