今回は武蔵野を巡る話題です。「武蔵野」と聞くと、首都圏にあって市街化が進んでいるものの、雑木林や田畑が残っていて自然が残された地域というイメージが浮かんでくる方も少なくないと思います。コンクリートで囲まれた都会に嫌気を強めた人々にとって武蔵野は、自然を感じさせて気持ちを癒す効果があるのかも知れません。東上沿線には武蔵野という名の会社や商品が目立つのも武蔵野にそれだけの魅力があるからでしょう。朝霞市が「むさしのフロントあさか」を標榜してシティセールスに励んでいるのもその一つだと思います。
武蔵野に命を吹き込んだ国木田独歩
武蔵野が人々に意識され始めたのは、明治時代の作家である国木田独歩が1898(明治31)年に発表した随筆「武蔵野」がきっかけになったと言われています。随筆「武蔵野」は、雑木林と農地が交錯した大地と風の流れや陽の光が作り出す自然の美しさを美文で表現し、今でも読者を惹きつけていますが、それ以前は単なる都会近くの郊外として見過ごされていた風景に新たな価値を付け加えました。
その象徴が「武蔵野」というネーミングでしょう。江戸時代まで武蔵の国に由来した地域名はあっても、そこに拡がる野原は単なる「武蔵の国の野原」であって、美意識の対象ではありませんでした。それが国木田独歩が武蔵野に命を吹き込んだことにより武蔵野の自然が鑑賞の対象となり、新たな価値を持つことになりました。
企業経営の視点からすると、国木田独歩は「武蔵野という美」を創造したイノベーターと言うべき人物だったのかも知れません。それだけに国木田独歩の「武蔵野」が日本社会に与えた影響力は大きく、首都圏だけでなく全国の人々に武蔵野のイメージを形成させ、それは21世紀の現代にも繋がっています。
武蔵野の範囲
ここで幾つかの疑問が浮かびます。その一つは「武蔵野の範囲」です。独歩は随筆で武蔵野が東京の西と東にあるとしています。「西の武蔵野」は、雑司が谷を起点に荒川沿いの中仙道西側を通って川越、入間、立川を通り、現在の川崎市上丸辺りまでのラインで囲まれた地域です。一方の「東の武蔵野」は、亀井戸から小松川、堀切を廻って千住当りまでのラインで囲まれた地域です。
独歩が「西の武蔵野」とした地域は、関東山地東麓に広がる洪積台地に当り、今ではその台地は武蔵野台地と呼ばれ、現在では武蔵野の範囲を「荒川以南・多摩川以北で、東京都心までの間に拡がる武蔵野台地(広辞苑第5版)」とする見方が支配的になっています。可哀そうなのは「東の武蔵野」で、独歩がこの地域を武蔵野としことを知る方はそれ程多くないでしょう。
荒川との関係
もう一つの疑問は、「荒川」の位置に関連します。江戸時代に改修工事が行われて荒川の流路が大きく変わっており、独歩が武蔵野の範囲として意識した荒川は、改修工事が完了した後の現状の流路を前提にしています。ご存知の方も多いと思いますが、江戸時代以前、荒川は江戸湾に流れ込んでいた古利根川に越谷辺りで合流していました。
当時の荒川周辺はたくさんの中小河川が走る湿地帯で、大雨が降るたびに河川が氾濫して農民を苦しめただけでなく、江戸城下にも洪水の危機をもたらしていました。このため徳川幕府は、本拠地を三河から江戸に移すと直ちに江戸城下の治水を改善する各種の施策を講じはじめました。その代表が、1621(元和7)年から始まった利根川の流路を変更する「利根川東遷」と、1629(寛永6)年から開始された荒川から利根川を分離する付け替え工事「荒川西遷」の大規模な河川改修事業でした。
「利根川東遷」は、それまで江戸湾に注いでいた本流を流路の締め切りや開削を繰り返しながら順次東方へ移し替え、1654(承応3)年に本流は銚子口から太平洋に注ぐ現在の姿になりました。また利根川水系の一つだった荒川も、「荒川西遷」により久下地先(現在の熊谷市)で締め切られ、利根川水系と切り離されて入間川筋を本流とする現在の流れになりました。元の流れは「元荒川」として名残りをとどめています。
「利根川東遷」と「荒川西遷」により利根川と荒川の間に拡がっていた湿地帯は田園地帯に変貌して地域に暮らす農民の生活を安定化させ、江戸市民に食糧を供給する穀倉地帯となりました。その名残が独歩に「東の武蔵野」と呼ばせた亀戸、千住方面の地域だったのかも知れません。
そのようなことを考えていたところ、奈良時代末期の6世紀半ばに編纂された万葉集に武蔵野を謳いこんだ歌があることを聞き付けました。そこで日頃お世話になっている古典文学の若手研究者で「古典文学を楽しむ会」を主宰されている大沢寛さんに万葉集を含めた中世以前に読まれた和歌に武蔵野を扱った歌は無いかとお聞きしました。和歌の表現からその昔の武蔵野がイメージできるのではないかと考えたからです。以下、二人の会話をご紹介します。
古典文学研究者大沢さんとの会話
長谷川:江戸時代以前の武蔵野は現在と異なり、利根川近くまで広がっていたのではないかと私は想像しているのですが、それを裏付けるような歌はありませんか。
大沢:長谷川さんの問題意識にピッタリ合う歌があります。
埼玉(さきたま)の 津に居る船の 風をいたみ
綱は絶ゆとも 言は絶えそね
(詠み人知らず)
この歌は、行田市埼玉にあったとされる津(船着場)で詠まれたものと考えられております。「埼玉の船着場に泊まっている船が、激しい風によって綱が切れてしまうことがあっても、私への言葉(頼り)は絶やさないでください」そんな意味合いの歌なのですが、船出する男の無事を祈って女性が詠んだものと考えられます。埼玉の津は、利根川水系のどこかにあった河岸(かし)と考えられるのですが、長谷川さんの話を聞いてその可能性を強く感じるようになりました。
長谷川:古今和歌集や新古今和歌集になると武蔵野に関連する歌が結構あるような気がします。大沢さんの目から武蔵野を読み込んだ歌をいくつか紹介してください。
大沢:「古今和歌集」にはこのような歌がございます。
紫の ひともとゆえに 武蔵野の
草はみながら あはれとぞ見る
(詠み人知らず)
これは「紫草がただ一本のあるがゆえに、この武蔵野に生えるすべての草は愛おしいものよ」という内容です。武蔵野は紫草の産地であり、昔は紫草の根っこから赤紫色の染料を採取していました。この歌では、紫草を愛する人に譬えて歌っているのですが、その愛する人に関係するもの全てが愛おしく、しみじみと趣深く感じられる、そんな思いを込めて詠んでいます。また『新古今和歌集』には次のような歌があります。
武蔵野や ゆけども秋の はてなきぞ
いかなる風か 末にふくらん
(左衛門督通光)
この歌は「武蔵野の地よ、どこまで行っても草葉が紅葉しており秋の景色は尽きることがない。一体どのような風が野末にふいているのだろうか」という意味合いの歌です。武蔵野の一帯に秋が深まって吹き通る風の激しさを思い起こし、「野末ではさぞ風が強く吹いているであろう」と思いやったものです。
長谷川:ご紹介いただいた歌を通じて大沢さんに武蔵野はどの様に映っていますか。
大沢:はい、万葉集・古今集・新古今和歌集のそれぞれの歌を通じて、武蔵野の自然豊かな情景が思い浮かびます。荒川の豊かな流れ、紫草や紅葉など季節によって色とりどりの様相を見せてくれる草木、そしてそんな草木の中に響く鳥たちの声など、じつに自然豊かな武蔵野の情景が浮かんできます。
長谷川:地質面からみると、中世以前の武蔵野は河川の氾濫がたびたび発生していた湿地が支配的な地域でしたから、湿地に自生する葦(あし)や低木が生い茂る荒涼とした原野が支配的で、所々にある陸地には各種の草木が生い茂っていたのでしょう。「東の武蔵野」が今に残っていたらそうした風景が楽しめたかも知れませんね。
話が変わりますが、大沢さんは、「古典文学を楽しむ会」を主催されています。大沢さんにとって日本の古典文学にはどの様な魅力があるのでしょうか。
大沢:日本には奈良時代より、実に多くの古典作品が書かれてきました。奈良時代の終わりに「万葉集」が、平安時代の中頃には「源氏物語」が書かれ、千年経った今なお多くの人々に読まれています。私にとっていちばんの魅力は、昔の人も今の人も抱く気持ちは変わらないのだということです。例えば万葉集にこのような歌があります。
来むと言ふも 来ぬ時あるを 来じと言ふを
来むとは待たじ 来じと言ふものを
(大伴坂上郎女)
歌の意味は、あなたは来ると言っても来ない時があるのに、ましてや、来ないと言うのに来るのかと待ったりはしませんよ。来ないとおっしゃるのだから、そんな内容になります。これは大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)という女性の歌なのですが、久しく会っていない恋人に自分の気持ちを伝え、なおも男性の訪問を待っている歌です。こうした感情は現代人にも共通するものがあり、共感しやすく、そうした点に私は古典の魅力を感じます。
長谷川:大沢さんが「古典文学を楽しむ会」を主催されるようになった経緯はどのようなものですか。
大沢:元々は塾で英語と古典を教えていたのですが、中高生を対象とする授業では教える内容や範囲が限られてしまい作品をじっくりと鑑賞する機会がなかなか得られないので、教える場所・対象を変えてひとつの作品をゆっくりと味わいたいと思って4年前に神奈川県鎌倉市に小さな教室を開き、その後、東京都狛江市にも教室を開設しました。お陰様で今では、両方の教室とも10名近くの方にお越しいただいております。
長谷川:「楽しむ会」にはどの様な方々が参加されているのでしょう。
大沢:ほとんどの方が6~70代の方々です。中には80代の方もおられますが、皆さん知的好奇心が旺盛な方々です。学生の頃源氏物語や百人一首・徒然草が好きだった方や、今まで古典に触れる機会がなかったけれど興味をお持ちの方など多様です。源氏物語の講座にご参加されている80代の方は、私よりも源氏物語に造詣が深く、「あなたはまだ若いから藤壺(登場人物)の気持ちが分からないでしょう」などと言われてドギマギすることもあります。
長谷川:「楽しむ会」が東上沿線でも開催されると良いですね。
大沢:はい、いろんな地域で開催したいなと考えております。先ほどの武蔵野に関する歌のように、地域によって異なる風土や文化が和歌や作品に反映されることはよくあります。狛江市の教室では万葉集の講座を開いているのですが、万葉集には多摩川に関する歌があり、また多摩川沿いには渋沢栄一が設立に関与した万葉歌碑があります。東上線は武蔵の国という古い歴史の地域を縦断する鉄道です。そうした東上沿線には、世の中に知られていない和歌や物語が多く残されているのではないでしょうか。古典を材料に地域にお住いのみなさんと交流を深め、地域の歴史や文化をご一緒に勉強できたら私としてもこの上ない喜びです。
長谷川:大沢さんのお話をお聞きする機会があれば私も参加させてください。本日は、お忙しい所有難うございました。
(2021年12月)
長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。
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