富士見市の写真家、宮地瀞(みやじ・きよし)さんは、9月1日から富士見市文化会館キラリ☆ふじみで、肖像写真展「出逢いの101人展」を開く(9日まで)。今回で第5回目となるこの写真展は、毎回宮地さんが出会った市内の人たちを紹介してきた。人間を深く観察し、一瞬、一燈をとらえる宮地さんのカメラは、その人その人の隠された魅力を引き出している。
肖像写真家
―宮地さんは写真家ですか。
宮地 そうです。
―写真館を開いているのですか。
宮地 スタジオは持っていません。仕事をするには、出張写真の形になります。たとえば、踊りの会、結婚式、展示物の撮影、などを依頼され行います。
―お仕事以外に、写真家としての自分の作品を発表されるということですか。
宮地 そうです。
―肖像写真が多いのですか。
宮地 肖像が多いです。写真家になった時、日本肖像写真家協会副会長の村瀬信彦という先生に教えていただきました。それから国画会という団体に入り、作品を出すようになりました。ただ、肖像写真以外も撮ります。
富士見市役所に15年勤める
―富士見市役所にお勤めだったのですか。
宮地 写真家になり、第1回の「出逢いの101人写真展」を企画し、当時の山田三郎市長に会いに行ったところ、気に入られて、「お前面白いことやるな、来ないか」と。広報課の写真の専門員として就職。昭和58年に入り、15年いました。「広報富士見」はほとんど私の写真です。役所に入ってからは、表向きは営業ができなくなりましたが、写真展には出していました。
―「101人展」をやろうとしたきっかけは。
宮地 私は人間が好きですから。まず市の顔である市長を入れて、それから富士見市でいろいろなことをやっている人を100人集めて、ひっくるめて写真撮ってやろうと考えました。家へ踏み込んでいくのも面白いだろうと。
―人選は。
宮地 私の好きにしています。出会って、あの人がいいと思った人しか行かないんです。坊さんからお医者さん、税理士、弁護士、踊り、画家、書道家、とか、片っ端から行っては撮ります。
―富士見市を代表する人ということでしょうか。
宮地 そういう面もあります。写真を撮らせてくれと言うと、先生や先輩に譲る方がいますから。
―どこで撮るのですか。
宮地 今度発表会があるからとかいうならその場で。ないと、トマト屋さん、お菓子屋さんのお宅まで押しかけます。
―今回は第5回になるわけですが、メンバーは毎回替わるのですか。
宮地 毎回替わっていきます。そうしないと面白くありません。それに年をとり写真をいやがる人も出てきます。普通は2回目はありません。
101人展は2年がかり
―すごく大変ですね。
宮地 一人一人交渉してOKをとる。1ヶ月で10人写しても100人では1年かかります。会場も1年前に予約しますから、ほぼ2年がかりです。最初の頃は、フィルムだから、材料はトラックで送ってくる。それを処理するのに水道は流しっぱなし。1ヶ月で4カ月分水が流れているというので、市役所の水道課から調べにきました。
―どのくらいの大きさの写真にするのですか。
宮地 A3ノビ(329*483mm)です。
―モノクロですか。
宮地 全部モノクロです。
―図録も。
宮地 今は図録を作成していますが、当初はありませんでした。
―費用もかかりますね。
宮地 額1枚でも6000円します。100枚で60万円。
―図録を買ってもらうのですか。
宮地 一部1万円でお願いしていますが、アルバム作っても買ってくれない人も多いです。
―肖像画自体は販売しないのですか。
宮地 売ってくれと言われれば売りますが、なかなか売れないです。自分の大きな写真はあまり喜ばないのです。特に私のは真っ黒けで、カラーできれいな写真ではないですから。
世界を飛び回り、人間観察
―肖像画だけではない
宮地 私は世界各国を走り回っています。最近はアフリカが多いです。エチオピアの少数民族ムルシ族は面白かった。ヨーロッパへ行っても私は白人の写真は撮りません。有色人種ばかりです。
―外国でもやはり人を撮るわけですか。
宮地 人間を観察しに行きます。私は人間とその生活が好きですから。外国の写真に家1~2軒分は投じました。
―最近も。
宮地 ついこの間まで、トーゴとベナンに行ってきました。
―今度の第5回「出逢いの101人展」では、「日本の祭」も同時に展示されるのですね。
宮地 最近以前撮った写真を整理して、アルバムを作って残しています。「日本の祭」は、あちこちの祭りに行って撮ったものです。
ライトやストロボは使わない
―宮地さんの写真は表現としてどのような特徴があると言ったらよいでしょうか。
宮地 自分ではよくわかりませんが、現場に行って、生きている証しと言うか、カーッとしたものがないと面白くないんです。何か感じないと。
―「101人展」をモノクロにしているのはどうしてですか。
宮地 人間の顔は、家の中の背景とかに色があると、的が絞れないんです。グチャグチャしたものが色があると出てくる。モノクロだと、抑えて黒くして、顔だけがアップで出てきます。色は見る人が想像してつけていただけばよいと考えています。
―ライトやストロボは使わない。
宮地 太陽の一燈でどういう写真が撮れるかという、そういうところが私が目指しているものです。私はストロボをたいたことはありません。真っ暗でもいい。そこから何が見えてくるかです。
写真館のスタジオでポンと押せば、ライトが一杯光り、好きな色で撮れます。そのような お客さんに喜ばれる営業写真は、肖像写真と別個のものです。とにかく喜ばれる写真はダメです。でも営業写真は喜ばれないと商売になりません。
―その人物の何を見ているのですか。
宮地 この人間は魅力あると思うと、見えてくるものがあるんです。この間撮った人も、こういう写真は初めてだが恐ろしいねと言っていました。
―シャッターは数をかなり押す。
宮地 むちゃくちゃ撮ります。どの写真がいいかは、踊りでも普通の写真のように最後の決めではなく、私はフィニッシュに入る寸前と、そこから出た直後を撮るんです。だから動きがないと。動きにはすごく敏感なので。踊りも決まった写真で撮らないから本人は喜びません。
―「101人展」はこれからも続けますか。
宮地 もうやりたくないです。家に寝るところがない。今も額150枚が家を占拠、おかあさんが怒っています。
―昨年、山口隆志さんという障害者の人と2人展を。
宮地 山口さんはむさしの作業所におられて、広報で取材に行った時最初に会いました。当時20代でした。この前あったら60代。車椅子です。「写真を撮って、一杯持っているが、展示をする金がない」。それを私が全部大きくプリントして、ハガキもポスターも作って写真展を開いた。私はほっとけない性格なんです。
京都の出身
―おいくつですか。
宮地 82歳です。
―出身は。
宮地 京都生まれです。
―写真家になったのは。
宮地 元々コロタイプという写真印刷をやっていたのですが、コロタイプがなくなってきたので写真に。
―富士見市に来られたのは
宮地 昭和34年頃です。弟が住んでいた。弟は歌舞伎役者をやっていました。
―富士見市の好きな景色は。
宮地 富士見市は、来た時から半分畑も田んぼもある。私がいた京都の東山は町ですが、山一つ越した山科は畑でした。小さい頃、カニ、カブトムシをとったり。そういうところが性に合ったようです
―これはという景色は。
宮地 ないですね。昔は梨畑に行くのに船で新河岸川を渡り、風情がありました。
―びん沼はどうですか。
宮地 あの辺も昔はよかったんですが。土手に桜を植えたりして。自然は人間が手を入れるとダメです。ただ、難波田城公園の大澤家住宅、金子家住宅は人物の写真を撮るのによく利用させていただいています。
―瀞(きよし)は本名ですか。
宮地 本名です。娘に静子、清子という名をつけました。
(取材2018年8月)
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