日本初の乳酸菌飲料「カルピス®」を開発し、国民的飲料に育て上げたのは三島海雲(1878-1974)である。三島は、どのような人だったのか、どのようにして「カルピス®」を作り出したのか。三島が設立した三島海雲記念財団の唐木田陽一常務理事にお話をうかがった。
三島海雲(みしま・かいうん)1878年(明治11年)、現在の大阪府箕面市の寺(浄土真宗本願寺派)で生まれる。13歳で得度。1902年、23歳の時、中国に渡り東文学社の教師になる。翌年、友人と雑貨貿易会社を設立、内蒙古(現内モンゴル)に入り、酸乳に出会う。1915年、日本に帰国、酸乳、乳酸菌製品の開発に乗り出す。1916年、乳酸菌で発酵させたクリーム「醍醐味」、1917年、カルピス社の前身ラクトー株式会社を設立し「ラクトーキャラメル」などを開発するも失敗。1919年、日本初の乳酸菌飲料「カルピス®」を発売。1923年、ラクトー(株)をカルピス製造(株)に商号変更。1962年、三島海雲記念財団を設立。1970年、91歳で取締役社長を勇退。1974年、96歳で死去。
寺に生まれ僧籍を持つ
―三島海雲はお寺に生まれているが坊さんではなかったということですか。
「三島海雲は得度をしており生涯僧籍にありました。寺の住職はしていませんが、仏教・仏典研究や研究者の支援を行いました」
―大陸に渡ったのはどういう動機でですか。
「当時の中国は日本の青少年の憧れの地でした。三島は23歳の時、北京の東文学社という学校が教師を募集しているということで渡航しました。」
内蒙古で酸乳と出会う
―酸乳との出会いは。
「東文学社で出会った友人に土倉五郎という人がいました。奈良の山林王と呼ばれた土倉庄三郎の五男ですが、この人と一緒に貿易商を始めました。そこでいろいろな事業をする中で蒙古に入り、酸乳に出会ったのです」
―酸乳とは。
「一般的に牛乳や馬乳を乳酸菌で発酵させたものです。いろいろな種類がありますが、現地では食べ物が少ない時など主食代わりに飲んだりしているものもあったようです」
―飲んだら体調がよくなった。
「三島は中国でいろいろな事業をやり長旅をして体力を消耗し、その時現地の人に酸乳をもらって飲んだら体調がすこぶるよくなったということです」
試行錯誤で「カルピス®」開発
―それで乳酸菌製品の開発に取り組んだわけですね。
「その体験があったので、体にいい酵乳、乳酸菌をもとに日本で事業化しようと、研究して開発を始めたわけです」
―開発にいたる経過は試行錯誤があったようですね。
「乳酸菌を事業化しようということで、まず乳酸菌の入ったキャラメルを開発しています。ただ暑い日本の気候では溶けたりしてなじまずに、脱脂乳を発酵させた『カルピス®』の開発に至ります。1919年です。日本に帰ってきたのが36歳で、それから乳酸菌の研究を始めて41歳の時に『カルピス®』ができあがります」
―三島海雲は自分で技術的な開発も行ったのでしょうか。
「実際に開発の研究をするにあたっては、専門家にアドバイスをもらったり、人を雇って、その人をたとえば大学の研究室に派遣するとか、多くの人の協力を得るやり方をとっていたようです」
三島海雲記念財団の設立
―財団を設立したのはいつですか。
「1962年、84歳の時、社長在任中です」
―私財を使ったのですか。
「私財を全て投じたと言われています」
―財団で何をやろうとされたのですか。
「これからは世界的に学術・知力の競争になるので、日本が今後更に発展していくには学術研究の発展が大事であり、そのための助成をしたいということです」
―今までどれくらいの助成を。
「昨年が60周年でしたが、累計18億円ほどです」
―三島は何歳まで生きたのですか。
「1974年、96歳で亡くなっています」
一流の人物との交流 羽田亨、杉村楚人冠
―三島海雲は一流の人物と交遊があったそうですが、例をあげていただけますか。
「一番有名な方は2人いらして、1人は羽田亨先生。東洋史の専門家で、戦前に京都大学の総長になられた方です。出会ったのは29歳の時ですが、非常にうまが合い、羽田先生が東京に来ると三島の家に泊まり、三島が京都に行くと羽田先生の家に泊まるとか。羽田先生からいただいた手紙が多数残っており、非常に密な付き合いでした。
もう1人は杉村楚人冠(そじんかん)先生。元々は三島の通っていた西本願寺文学寮で先生をしていて、三島より6歳上です。楚人冠先生は朝日新聞に入り、有名なジャーナリストとして活躍しました。三島は事業を興した時も経営者時代もアドバイスを仰ぎ、生涯の恩師と慕いました」
―お付き合いが広かったようですね。
「三島のことばに『一流主義』があり、何かわからないこととかあったらその道の一流の人に尋ねるということを言っています。1909年、モンゴルで綿羊の改良事業をしようとした時は、大隈重信侯の所に行って相談したそうです」
「天行健」
―三島の残した言葉を紹介していただけますか。
「いろいろありますが、一番は『天行健』(天行は健なり、君子は自らつとめて息まず)、『易経』にあることばです。天の運行は毎日決まったように動いている。人間も毎日規則正しい生活を送ることで健康に過ごせ、事業も成功するという意味です」
―健康には気を使っていたようですね。
「三島は『私は生来丈夫だったわけではない。だから人一倍健康に気を使い、努力してきた』と書いています。一つは『天行健』の生活、日常の規則正しい生活にはこだわっていました。あとは食べ物。健康にいいというものを探しては自分でも試し人にもすすめていました。健康法も日光浴など独自の方法を考案しています」
―カルピスの開発も健康志向の延長とも言えますね。
「他にも、一時期、栗が健康にいいということでマロングラッセの事業化を考えたり、三島食品という会社を作ってロイヤルゼリーの販売をしていました」
―富士山に毎年登っていたのですか。
「自己研鑽とカルピスに関わる人の健康と繁栄を願うという意味で44歳の時から登り始め、88歳で登った記録も残っています。毎回富士山頂からハガキを関係者に送っています」
―三島海雲関連の碑とか建物が残っていますか。
「東京築地本願寺和田堀廟所に顕彰碑があり、お墓もそこにあります。また、小金井公園の『江戸東京たてもの園』の『デ・ラランデ邸』は三島が住んでいた家を移設した建物です」
『初恋五十年』
―著書は。
「何冊かありますが、代表的なのは『初恋五十年』(ダイヤモンド社、昭和40年初版発行)です」
―三島海雲の偉さはどこにあったと言えますか。
「一つは『自分はいつ、天、仏様、神様から心の中を見られても、恥ずかしいことは一つもない生き方をしてきた』と言っています。そういう公明正大さ。あとは自分のことより世の中とか日本のためとか公を重んじる『私欲を忘れ、公益に資する』姿勢です」 (取材2023年4月)
(本記事はインタビューの他、三島海雲記念財団ホームページ、「カルピス」ホームページ、『カルピスをつくった男三島海雲』(山川徹、小学館文庫)などを参考にしました)