意図的呼吸の仕方を呼吸法と呼ぶと、呼吸法の歴史は長く、仏教の開祖、釈迦牟尼まで遡る。当初は仏教の宗教的修行の方法として、中国から日本に伝わった。その後、中世から近世にかけ、禅宗の僧侶、儒学者らによって呼吸法が継承され、明治以降は創意工夫により様々な方法が考案され、呼吸法が精神修養、健康法として一般の人々にも浸透した。呼吸法の歴史を概観してみたい。(以下は青木純一結核予防会結核研究所客員研究員・前日本女子体育大学教授の論文「呼吸法の歴史とその特徴について」2013、及び青木研究員のお話を元に作成しました)
<嚆矢(こうし)期>釈迦、智顗、蘇軾
釈迦 釈迦の呼吸に関する行は、「大安般守経」、「阿含経」などの経典に見られる。釈迦は最初は「止息」(「断息」)から始めたが、35歳の時「入る息を入る息と受け止め、出る息も心ゆくまで出させる」呼吸法(アナパーナ・サチ)に切り換えた。その具体的方法として「出る息のみを長くすることに重きをおく出息長の呼吸」、すなわち「長呼気丹田呼吸」(「数息」「相随」「止」「観」「還」「浄」の六段階)を開発し実践した。
智顗(ちぎ、538-597) 智顗は中国随の時代の高僧で天台宗の開祖として知られ、その弟子の浄辨が筆記した「天台小止観」には智顗が説いた「坐禅のやり方」や「人間の体と呼吸と心のあり方」が記されている。呼吸と心の関わりを強調し、我が国の禅にも大きな影響を与えた。
蘇軾(そしょく、蘇東坡、1036-1101) 北宋の政治家。蘇軾は「政争に破れ、流謫の日々」を送る中で人間の生死の問題を考えるようになり、自宅に不老不死の丹薬を作るかまどを備え、呼吸法などの「内丹術」に没頭した。その呼吸法は「鼻の先を見ながら出入りする息を数える」「数息」から「随息」を経て「体呼吸」へ発展させるもの。
<継承期>道元、貝原益軒、白隠慧鶴、佐藤一斎、平田篤胤
道元(1200-1253) 曹洞宗の祖である道元の『普勤坐禅儀』には禅の伝統のすべてが集約されている。「坐禅の要術」として「一息にフーッと息を吐き出し、右と左に体を一度ゆすって、山の動かぬように座りこみ、思慮分別を超えたところを思量する」と述べている。また「姿勢を正し、息を整えることによって、無意識のものを調整できる」とし、「調身・調息・調心」の三位一体を伝え、坐禅を発展させ、武道や芸道にも生かされた。
貝原益軒(1630-1714) 儒学者で本草学者の貝原益軒は『養生訓』で養生の要点は「心気を養う」ことであると指摘し、方法として「調息の法」や「養気の術」(臍下丹田呼吸法)を取上げ具体的に詳しく説明している。臍下丹田呼吸法の中で「芸術をつとめ、敵と戦ふにも、皆此法を主とすべし」と述べている。
白隠慧鶴(はくいんえかく、1686-1769) 白隠は江戸中期の僧で臨済宗中興の祖と言われる。20代半ばに禅病にかかり白幽老人に治療法「内観の秘法」「軟酥(なんそ)の法」を教えられ健康を回復した。その体験談を記したのが『夜船閑話』である。「内観」とは仏教では自己の本体をよく見つめることで、その方法は、夜眠る前「長く両脚を展べ、強く踏みそろへ、一身の元気をして臍輪気海、丹田腰脚、足心の間に充たしめ、時々に此観を成すべし」というもの。丹田呼吸の研究者村木弘昌は『「内観の秘法」「軟酥の法」イコール長呼気丹田呼吸法』と指摘している。白隠は呼吸法の治病への有効性を体験を踏まえて広報し、その後の普及と発展に貢献した。
佐藤一斎(1772-1859) 儒学者で70歳で昌平黌の儒官となった佐藤一斎の『言志四録』の中で呼吸法について論述。「人身にて臍を受氣の蒂(てい)と為せば、即ち震氣は此れよりして発しぬ」臍下丹田呼吸をすすめている。
平田篤胤(1778-1843) 江戸時代後期の国学者で復古神道を鼓吹した平田篤胤は『志都乃石室』で丹田呼吸法の実施方法と効果を述べている。特に白隠の「内観の法」を自ら実践し「何ナル良薬モ、此術ニ越スモノ無シ」と評価している。
<発展期―明治から昭和初期にかけて> 岡田式静坐法、調和道丹田呼吸法、二木式呼吸法、中村天風
岡田虎二郎(1872-1920) 岡田虎二郎が考案した「岡田式静坐法」は、端坐(正坐)しながら呼吸することで相互の働きを高めるという方法。呼吸は逆式の丹田呼吸法で「気を身体の下方に下げる」(上虚下実)を重視する点で白隠の影響が見られる。この静坐法は早稲田大学学長高田早苗をはじめインテリ層を中心に普及し健康ブームの契機となった。
藤田霊齊(1868-1957) 藤田は明治の終わり頃、白隠の「内観の法」を参考に自ら修行実践し「調和道丹田呼吸法」を編み出した。これは、鍛錬法、修養法、治病法及び基本操錬の4法から構成され、「上虚下実の體位」「完全息の六原則」を原則とする、丹田を意識した逆腹式呼吸を基本としたものだった。藤田は経験だけでなく科学の世界にも目を向け、科学的に独創的な呼吸法を開発した。
二木謙三(1873-1966) 二木謙三は医学者で東大教授、都立駒込病院長などを歴任、伝染病の研究をしながら栄養学、食物の研究で実績を残した。二木式呼吸法は、丹田呼吸法であるが具体的方法は平田篤胤の影響が見られた。二木式は著名な学者により疾病予防のための呼吸法が主唱されたことに意義の大きいものがあった。
中村天風(1876-1968) 中村天風はヨガの聖者と言われたインドのカリアッパについて修行し、ヨガを日本に初めて伝えた。その呼吸法もヨガが土台となっており、「完全呼吸法」は「自己調和体勢」(「クンバカハ」の体勢)で静かに深く長く行えばよいとする。中村は呼吸作用と自律神経の関わりを理解し、さらに「呼吸によって充実された活力は生命力の一切を高め、精神生命までも高める」ととらえていた。中村に直接指導された人は10万人と言われ、呼吸法の普及に貢献した。
<充実期―昭和20年以降、呼吸法に科学のメス>
戦後科学の発展を背景に、ヨガ、禅、気功などの呼吸法の効果について科学的メスが入れられた。代表的なものに、石川中(ひとし、東京大学)のハタ・ヨーガに関する実験、杉靖三郎の「坐禅の呼吸生理学的研究」、永田晟の呼吸のリラクゼーション効果についての報告、坂木佳壽美の「腹式呼吸が自律神経機能に与える影響」の報告などがある。
青木純一さんのお話
私は結核の社会史を研究する中で、まだ結核が治らなかった時代に いろいろな治療方法があったが、その一つが呼吸法であったことから興味を持ちいろいろ調べてみました。呼吸法は肺を丈夫にするという発想から一部で試みられていましたが、効果については賛否両論で明確な結論が出ていませんでした。とりあえず呼吸法の歴史をまとめたのが「呼吸法の歴史とその特徴について」(2013)という論考です。時代を区切って代表的な人を紹介しています。ここでは触れていませんが、肺結核の予防治療で呼吸法の有用性を唱えたのは小田部莊三郎医学博士です。小田部博士は大正時代、欧州で医療の現場、研究に従事し、その経験もありリハビリの観点から深呼吸の効能に注目しました。代表的著作に『深呼吸と心身の改造』(1926)があります。
(取材2024年10月)