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川越街道・
松平信綱と平林寺(3)

川越城主が常用した下練馬宿、
旅籠屋跡が残る白子宿
小泉 功

下練馬宿(練馬区・当時は村)

 当宿は、上板橋宿より26町(2834m)の所にあって、現練馬区内で唯一の宿場であった。練馬白山神社の地域と共に、最も人家が密集していた地域である。下練馬宿には、板橋方面から通称〝ねりま横丁〟といわれる道が通じていた。また、大山道の分岐点でもあるので、宿の主要な施設は当宿一帯に集中していた。『新編武蔵風土記稿』に下練馬宿について次の様な記事がある。

 「日本橋より3里許、民家426、東は上板橋村、西は上練馬村、南は中荒井村、北は徳丸本村及び脇村・東西28町、南北1里ほど」とあり、本陣は当初、中宿の木下家がその任に当たっていたが、その後、上宿の名主・大木家へと替わった。またその脇本陣は川越藩をはじめ各藩が利用していた。問屋場は木下家の向かいにあって、馬や人足の引継ぎで繁っていた。当宿には、旅籠屋として「かごや」「つたや」と称する家があって、今でも屋号だけは残っており、その存在がわかる。宿泊した人々は、上州や秩父に商業圏をもっていて、この街道を往復した行商人が多かった」

 当然のことであるが、川越城主は参勤交代のたびに下練馬宿を常用していたのである。

 

白子宿(和光市)

 白子の地名は、奈良時代の天平宝字2年(7588月、新羅僧尼34人が移されて、武蔵国新羅郡が設けられたことによる。新羅が志楽→志楽久→四楽→志木→さらに白子と変わったと云われている。ここに川越街道の宿駅が設けられたのはいつ頃であろうか。

 文明・長享(146989)の頃にはすでに白子宿が相当な宿駅になっていたことが禅僧万里の著『梅花無尽蔵』に記されている。

 「長享竜集戊申(1488814日、辰刻草食、武蔵江戸城を出る。数十騎之真俗らが余を送り78里、鞍上に十鴻を聴くに・・・云々 今朝乱を避けて江城を出ずる。雲山面を熟、我行を送る。(中略)始めて聴く鞍上十鴻の声。此夕、白子里に宿す」とある。上杉顕定と上杉定正の戦乱を避けて河越街道を下り、白子宿に泊まったことがわかる。

 白子宿は、天正15年(1587)に、小田原北条氏により開墾と新宿が設けられ、六斉楽市(自由市)が開始される。

改仰出られ条々

一.     不作之田畠甲乙之所を見届け、五年荒野に代官一札を以て相開く可きの事。

一.当郷儀は光代より不入の儀、当代に至りなお御証文入らず、御公儀より申請すべき間、新宿見立て、毎度六斉楽市取立可き事。

天正十五年丁亥午四月三日  代官

白子郷百姓中

 この記事は、長享・永正の頃(14871520)、河越街道に接して増設された市で、毎月上下の六斉市が開かれていた。

 白子宿で、古い旅籠屋といえば、「川越屋」、「亀屋」があり、最近まで営業していた「幾世屋」があった。幕末まで喜多院の僧侶たちが休宿したところで、その関係文書が今も保存されている。


現在の白子宿跡

 本陣をつとめた「富沢家」は今も郵便局と薬局を経営し、古文書が保存されている。

 白子宿の東に「滝の不動」がある。この辺一帯は尾張藩の鷹場であった。今もその標柱が宿に保存されている。白子宿から約1里(4km)で膝折宿に達する。

(川越市文化財保護審議会会長=当時)

(「東上沿線物語」第24号=20097月に掲載した記事を20217月再掲しました)

川越街道 松平信綱と平林寺(1)
川越街道 松平信綱と平林寺(2)