川越市の文化財保護審議会会長などを務める考古学者、小泉功さんは、高校の教員のかたわら、永年川越を中心に史跡の発掘作業に携わってきた。水子貝塚(富士見市)、河越氏館(川越市)などではその保存の必要を訴え、国指定化に貢献した。小泉さんは、東上沿線は、重要な史跡が連なる「史跡のベルト地帯」であると言う。 (取材2007年)
教職のかたわら遺跡の発掘
―今おいくつ。
小泉 79歳。
―出身は川越ですか。
小泉 東京です。戦争中、父母が川越の方に疎開した。私は学徒動員で終戦になり川越へ帰ってそれからずっと。
―歴史の先生を。
小泉 昭和25年に川越高校の教員に。元々考古学をやってきたもんですから。
―考古学をやろうと思ったきっかけは。
小泉 戦争中は軍国少年として叩き込まれました。戦争が終わると、戦前にも人間の歴史の研究をやっていた人達がいたのがわかりました。たまたま登呂遺跡の発見などもありまして。
―教員をやりながら調査を。
小泉 考古学、埋蔵文化財を、やる人がいない。県でも少ない。そこで県から調査依頼が来て、午前中授業やってから現場に行く。川越、狭山、入間、富士見、上福岡など。県や川越市としても、考古学をやる人が少ないので、もう転勤しなくていいって。それで(川越高校に)ずっと居た。
―退職されたのは。
小泉 58の時。それ以前から市の文化財審議委員となり、発掘も続けた。「大井町史」、「上福岡市史」、「富士見市史」、「川越市史」にも関係しました。人の3倍くらい働きました。好きだからね。
―今後の予定は。
小泉 現在は東明寺の発掘調査の整理。それから、河越館のまとめをやろうと思います。生涯の仕事ですから。
―沿線の史跡について。
小泉 東上沿線は史跡のベルト地帯です。原始古代は水子貝塚公園(国指定)、古墳時代の終わりは松山に多い。一つが吉見の百穴(国指定)。古代から中世は河越館(国指定)が歴史公園になる。近世は川越の城下町(国指定)がある。うまくやれば,沿線は歴史の勉強をする格好な地域であるといえる。こんなに恵まれた条件の地域はない。
武蔵野国守護クラスの館 河越氏館 国指定歴史公園に
―河越氏とは。
小泉 源義経の正妻が河越太郎重頼の娘なんですね。河越太郎重頼という人は、頼朝の乳母、育ての親だった比企氏の比企尼の娘を奥さんにして頼朝に仕えたんですが、頼朝と義経が仲違いして衰退します。北条氏の時代になると北条氏と一体化して、自分の一族である畠山氏をやっつける。最後は室町時代になってから滅ぼされるわけですが。
―「川越」という地名の語源ですか。
小泉 地名の方が先なんです。そこを支配したから河越の名前を語る。
―河越氏の館跡の歴史的な重要性を。
小泉 方形の館なんです。館というのは城とは違い、兵農分離してないんですね。普段は農業やって戦争となると武士になるわけ。一国一城の主のような守護クラスになると二町四方の家に住むんです。河越氏も武蔵野国の守護クラスです。それがよく残っているので、館を国指定にして中世の歴史公園を作ろうと。
―国指定の史跡に。
小泉 ええ。坪数で約1万6千坪ですが。市民運動をやって成功したので。平成21年に約4分の1が公園化される。
河越氏館跡
―国指定になったのはいつ頃ですか。
小泉 昭和59年です。最初は戦争中に県の指定になっていたんですよ。それが、宅地造成されることになっちゃった。ところがとんでもない遺跡だというんで、県民や学生が立ち上がって、「先生どうなんだ」と言うから「もちろん保存じゃなきゃ駄目だ」と。全国の中世の歴史をやっている人たちにも呼びかけ、1万人位署名を集めて、文化庁と県、市に要望書を提出しました。それがきっかけで発掘調査もやったんです。
一時公共建築物ならと小学校を作る話も出た。私たちはそれは困ると。結局最後は川越市長が文化庁に電報打った。そしたら文化庁も電報で、「国指定に値する遺跡であるから地元として保存するように」、という意味の返事があり、はずれの方に小学校を移転させて、やっと保存運動が実り、国指定になるわけです。
今から約50年位前ですかね。国の補助金を使って少しずつ買っていかなきゃならないんで、時間かかるんですよ。
62ヶ所の貝塚・住居を完全保存 水子貝塚(富士見市)
―発掘をされたんですか。
小泉 恩師である東洋大学の和島誠一先生と一緒に調査しました。昭和24、5年頃から30年頃にかけてでしょうか。
―国指定遺跡に。
小泉 (当時の富士見町に)大変熱心な教育長(大道氏)がいたんです。県に言っても埒があかないので、文化庁へ行って保存してくれと要望したんです。私もお手伝いして、国指定にしたんですけどね。
―あそこは何だったんですか。
小泉 畑です。約62ヶ所の貝塚が馬蹄形に分布していまして。その全部を保存するため、多くの人々の協力を得て運動は成功しました。
―この遺跡の重要さはどこにあるんですか。
小泉 貝塚の下には竪穴住居が必ずあり、集落として馬蹄形に全部残っている。6千年から5500年位前(縄文の前期)の集落が完全に残っているのは極めて少ないんです。千葉県には加曽利貝塚を代表としてかなりあるけども、内陸部で全部残っているのはここだけしかないです。
―あそこは平らな場所ですよね。
小泉 台地の突端なんです。(前方に)新河岸川、荒川が。そして台地の脇を柳瀬川が流れ、上流から葉っぱや木の実などが運ばれ有機物が沈殿した所へ魚が住み着き、鳥やなども来る。で、ここで生活すると動植物を豊かに採る事ができる訳ですよ。貝を採ってそれで台地の上で生活する。
―貝が採れるのは海だったという事なんですか。
小泉 遠浅で海水が入ってくる。古東京湾って言うんですけどね。
―今は公園として保存。
小泉 竪穴住居があるという事は分かったから、今後は掘らないで残していくことにしています。掘ることは一つの破壊ですからね。そのままを残す(動態保存)が一番よい方法です。
―見学者が直接その住居とかを見る事は。
小泉 できます。復元した住居が4軒あります。
水子貝塚
川越夜戦の最終決戦の場 東明寺
―東明寺はどういう史跡。
小泉 東明寺は鎌倉時代には大変大きな寺でした。時宗の寺です。一角にマンションが建つので発掘調査をやったんですが、ここは世に言う川越夜戦(1546)の最終決戦(東明寺合戦)の場です。江戸時代は最初代官町という町ができ、中頃からは遊郭ができる。それが明治26年の大火で焼け、それ以降は裁判所などができて上級の住民が住む。
―調査でわかったことは。
小泉 特に近世から明治、大正にかけ、物資の交流が盛んであったことがわかる。焼き物でも、肥前系、四国、京焼き、信楽、金沢のものとかが。川越の経済が、発展した時期の跡付けができます。
発掘で、20代そこそこの女の人の人骨が出た。この墓に北宋銭が入っており寛永通宝はなかったことから、川越夜戦の犠牲になった人だと思われます。
―遺物は何点くらい。
小泉 焼き物がほとんですが、5千点ぐらいですかね。
―整理にどのくらい。
小泉 今までで10年かかっているんですよ。もうじき終わりますが。
太田道真・道灌 河越、江戸城築城550年
小泉氏はこのほど『太田道真と道灌』(幹書房)を著した。道真・道灌親子が、河越、江戸、岩付に築城して今年で550年になるのを機に、その生涯を追うととともに、関連史跡の紹介をしている。
―太田道真・道灌が河越城の築城の経緯は。
小泉 道真はお父さんで道灌は息子。室町幕府の関東支配の拠点である鎌倉府にいた足利氏一族の成氏が古河に逃げて、関東平野を乗っ取ろうとする。幕府は、(古河に対する)荒川の対岸の河越に城を作って対抗しようと、上杉持朝の命令で道真・道灌が造るわけです。
さらに河越と鎌倉府との間に中継地点を造る必要があると、江戸城築城に道灌が出向く。ともに1457年。すぐに完成まではいかないが。
―本の中では、新しい発見も。
小泉 上杉氏の中で、宗家が山之内家、道真・道灌は扇谷家。道灌があまり活躍したので諸武将が道灌側につき、道灌の主人の上杉定正があわてる。それを上杉氏宗家の顕正がそそのかし、定正が伊勢原というところで、道灌を殺す。定正館の場所は従来言われていた粕谷ではなく、糟谷ではないかという説を取り上げました。
(本記事は「東上沿線物語」第5号=2007年9月に掲載しました。一部変化している情報があります。水子貝塚遺跡記事はこちら)
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