越谷市在住の古代史研究者、宮川進さんはこのほど、『埼玉の古墳めぐり』(さきたま出版会)という本を著した。県内の古墳70基を紹介、読者が実際に訪れ古代のロマンに浸れるようにガイドとして役立つ内容となっている。東上沿線には、3世紀後半の権現山古墳群(ふじみ野市)など古墳時代の中でも古いほうの古墳が数多くあって興味深いとのこと。宮川さんは当時東海地方から来た人たちが舟で荒川やその支流を遡り、住み着いたのではないかとみている。
飲食店がチェーンばかりになりお店紹介は今回は取りやめ
―今回、『埼玉の古墳めぐり』という本を出されたのですね。
宮川 今から22年前に同じような題名の『さいたま古墳めぐり』という本を書きました。20年たった2年前に、版元のさきたま出版会さんから、本を作り直してみないかとお話があり、全部書き直して新刊として出したわけです。埼玉の古墳を70基紹介しています。取り上げている古墳はほとんど同じですが、一部なくなっているものがあり、10基ほど補充しました。東上線沿線は、数がいちばん多いです。
―紀行形式で、訪れる人に役に立つ内容になっています。
宮川 古墳は人が行っていただけることを基準に選んでいます。2ページで1つを紹介。学術書ではなくとにかく見ていただく、ご案内をするのが主目的ですので、地図とアクセスなどの情報も入れています。最初の本は必ず地元の食べ物屋とか名物をコラムで取り上げていたのですが、今回残念ながら取りやめました。飲食店がチェーン店ばかりになったからです。
―対象としている古墳は、いわゆる古墳時代の古墳ですか。
宮川 弥生時代の後が古墳時代で、古墳時代にできた墳墓が古墳です。ここで取り上げている古墳がそうです。ただ、弥生時代の終わりにも、古墳と同じようなカタチの墳丘墓があるのですが、これをどう扱うのか、学者によっては「弥生時代の古墳」と言っている人もいます。
埼玉(さきたま)古墳群は3月10日に国の特別史跡に指定
―埼玉県で古墳と言えば、埼玉古墳が有名です。
宮川 埼玉古墳群は2020年3月10日に国の特別史跡に指定されました。これは単なる指定遺跡ではなく、「国宝級」の遺跡として認められたということです。残念ながらコロナ騒動で地元の記念行事も中止になっています。
―どういう古墳ですか。
宮川 埼玉古墳群は行田市にあり、稲荷山古墳、丸墓山古墳、二子山古墳、愛宕山古墳、奥の山古墳、瓦塚古墳、鉄砲山古墳、将軍山古墳、中の山古墳の9基の大型古墳などから成ります。ほとんどが5世紀末から6世紀に造られた。一番大きな二子山古墳は長さ132mあり、 それらの古墳が約100年の間にまとまって造られているのが一つの見どころです。
二子山古墳(さきたま史跡の博物館ホームページより)
―埼玉古墳群の特徴はその大きさにあるのですか。
宮川 一つ一つの古墳の大きさでは、やはり昨年「世界遺産」に指定された百舌鳥(もず)古墳群や古市古墳群に含まれる天皇陵に比べるとかないません。しかし、埼玉古墳群は大きさではなくて9基の古墳が一世紀の間に造られたことが誇れると思います。そして稲荷山古墳から出た鉄剣には115文字が金錯銘されています。日本の国の歴史で古墳時代の遺物にこれほど多くの文字が使われている例は他にありません(1983年国宝指定)。
毛野(けぬ)国の強大な勢力に対抗する防衛ライン
―それほどの規模の古墳がそこに造られたのはどうしてでしょうか。
宮川 それがどうしてそこにできたかについては、いろいろ説があり、1つは古代、利根川の北は毛野(けぬ)国(上野=こうずけ、下野=しもつけ)という強大な勢力があって、その防衛ラインではなかったかというもの。今の太田市に天神山古墳という東日本最大210mの大古墳がありますが、それを造るほどに毛野の国の勢力は強かった。それは大和朝廷にとって脅威でした。その南下進出を防衛するために、行田に橋頭保を置いたということではないでしょうか。
―毛野の国に対する防衛を目的にしたというのは宮川さんの独自の推理ですか。
宮川 埼玉古墳群が行田に造られた理由については、まだ定説はありません。専門家の方々は、いまの段階でこうだとおっしゃることはできないと思います。私はアマチュアの立場で埼玉古墳群を面白くするためもあって、こういう説を持ち出しています。
東上線沿線の古墳
―東上線沿線の古墳を紹介していただけますか。
宮川 東上沿線は数が多く、本書では以下の古墳を紹介しています。
・穴八幡古墳(小川町)
・月の輪古墳群(滑川町)
・稲荷塚古墳(嵐山町)
・とうかん山古墳(熊谷市~東松山から)
・甲山古墳(熊谷市~東松山から)
・雷電山古墳(東松山市)
・山の根古墳(吉見町)
・黒岩横穴墓群(吉見町)
・吉見百穴(吉見町)
・野本将軍塚古墳(東松山市)
・古凍・柏崎古墳群(東松山市)
・根岸稲荷神社古墳(東松山市)
・諏訪山古墳(東松山市)
・諏訪山29号墳(東松山市)
・胴山古墳(坂戸市)
・苦林古墳群(坂戸市・毛呂山町)
・慈眼堂古墳(川越市)
・三変稲荷神社古墳(川越市)
・広徳寺古墳(川島町)
・牛塚古墳(川越市)
・山王塚古墳(川越市)
・権現山古墳群(ふじみ野市)
・柊塚古墳(朝霞市)
埼玉の古い古墳は東上沿線に固まっている
―東上沿線の古墳の特徴は何ですか。
宮川 築造された年代が古いことです。埼玉の古い古墳は東上沿線に固まっています。古いのは3世紀後半からあります。日本で一番古いのは卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳(奈良県桜井市)、3世紀の中頃です。それから50年以内の古い古墳が、県内に4つありますが、そのうちの3つ、権現山古墳群、根岸稲荷神社古墳、塩古墳群(熊谷市)は東上沿線です。
権現山古墳 (ふじみ野市)
―なぜ東上沿線に古い古墳が多いのでしょうか。
宮川 荒川に沿って古い古墳が造られています。東京湾から荒川の支流を遡ったのではないか。どういう人たちかというと、東海地方(今の岐阜、愛知、静岡)の人たちが、小さい舟に乗って東京湾に入って、荒川を遡って、さらにその支流を遡って居を定めたのではないか。そこが小規模ながらまとまりのよい耕地を見つけることができる場所だったということです。
利根川も当時は東京湾に注いでいましたが、川が大きくて上流からの土砂の堆積が多く舟で上流にスムースに遡れなかったのではないでしょうか。
権現山古墳や根岸稲荷神社古墳は前方後方墳
―東海地方から来た人たちであったという根拠がありますか。
宮川 ふじみ野市の権現山古墳や東松山の根岸稲荷神社古墳は前方後方墳です。この形は東海地方の人たちがその地で古墳を造った時のものと共通です。
―前方後方墳は古い時代だけなのですか。
宮川 そうです。このカタチは東海地方に起源があるものです。また、残された土器も、東海地方の土器が多いのです。古墳時代でも前期しか造られなかった古墳ですね。前期に、東海地方では前方後方墳が造られ、近畿地方では例外もありますが、主には前方後円墳が造られました。関東地方では埼玉だけでなく、群馬、栃木、茨城、東京、神奈川とすべて、古い古墳は前方後方墳なのです。例外は千葉の市原にある神門(ごうど)古墳群で、3基の最古の時代の前方後円墳が造られています。
吉見百穴は横穴墓
―吉見百穴も古墳なのですか。
宮川 住居跡だと言われた時代もあったのですが、百穴から出てくる土器とか遺物が古墳から出てくるものと一緒だったことから古墳だということになりました。
―自然の山を利用して造る古墳もあるということですね。
宮川 考古学的には横穴墓といいます。6世紀は古墳で言うと、群集墓という、今の町長とか町内会長さんのような人たちが古墳を造った時代です。そうした時代に崖に穴を開けて葬ったグループもあったのです。横穴墓と群集墓の時代は一緒です。
―山や丘を墳墓にした古墳もあるのですか。
宮川 古墳は、山の一部を利用することはあっても基本は人工のものなのです。山そのものを使うことはありません。少し高いところに造ることはあっても、その上に人工的に土を盛り上げています。
喜多院境内の慈眼堂古墳
―毛呂山町の鎌倉街道跡沿いにある古墳は趣きがあります。
宮川 苦林古墳群ですね。私も好きな古墳群です。小さいけれど前方後円墳が5基もあります。前方後円墳というのは造るのになにかの制限があったらしいのですが、この苦林のヒト達はどういうグループだったのか大きな謎です。ロマンですね。
―慈眼堂は喜多院境内の天海僧正をまつった堂ですが-。
慈眼堂古墳 (川越市、喜多院境内)
宮川 そうです。元々古墳があり、そこに天海さんの慈眼堂が建ったので、今慈眼堂古墳といわれています。周りにも結構古墳があり、遺物が出ています。三変稲荷神社古墳も古い。墳丘は崩れていますが、川越では貴重な古墳です。古墳は、こういう思いがけないところにあることもあります。
そして川越では、もう一つ、山王塚古墳もお忘れなく。全国でも珍しい上円下方墳で、しかも全国で一番大きいのではないかといわれている古墳です。
徒歩で巡る
―取り上げた古墳は全部歩いたのですか。
宮川 鉄道・バスと歩きと一部は自転車を利用してまわりました。古代のヒト達はもちろん足で歩くしかなかったのですから、現代の方々も古墳へ行くなら歩いて行っていただきたい、歩きながら同じ道を歩いた古代のヒトのことを思っていただきたいのです。
―古墳をどう探しましたか。
宮川 古墳を見て回ろうと思い立ち、ピックアップしたのは県史とか市町村史ですが、なかなか場所がわからず右往左往して、地元の方に聞いても知らないこともありました。それだけ面白い古墳があるのに地元でも知らない、ましてよそから来た人は埼玉古墳群と吉見百穴だけしか知らない。それはもったいないことです。何とか地図がほしい、地図を本にしてほしいと、さきたま出版会に飛び込みでお願いに行ったのが最初でした。
―全部回るのにどのくらいの時間が~。
宮川 最初の本は5年ほど。今回は2年くらいです。最初の本があるので簡単に行けると思っていたのですが、20年たつと道路は変わり、バス路線がなくなり、苦労しました。
葬られた人と造った人の関係はどうだったのか
―古墳の面白さは何ですか。
宮川 それはやはり自然の山ではなく、古代の人が機械もなくて自分たちの手で造り上げたということ。それと、葬られた人と造った人の関係はどうだったのか、ボランティアだったのか、報酬をもらって造ったのか。何らかの意味で、この人は自分たちのリーダーであると意識して作ったのではないかとは思っていますが、そういう姿を思い浮かべられる。古墳には墳丘があり、我々は上り、古代に触り、偲ぶことができるのです。
小学校時代に先生が作ったしおりにあった古墳の図に興味
―今、おいくつですか。
宮川 81歳です。
―お仕事は何をされていたのですか。
宮川 最初は安田信託銀行(現みずほ信託銀行)に勤め、その後協和埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)に移りました。
―考古学は。
宮川 趣味の世界です。信託銀行時代に越谷に引っ越してきて、埼玉の古代史に興味を持ち、最初は市内の畑に土器を拾いに行っていましたが、埼玉は埼玉古墳群、吉見百穴とか有名な古墳があり、見てみようということになりました。
―古代史に関わるきっかけは。
宮川 私は滋賀県の近江八幡の出身ですが、小学6年生の修学旅行で奈良・伊勢に行った時、先生がしおりを作ってくれた。そこに古墳の形がいろいろ出ており、古代に興味を持ちました。家の近くにも土器の破片が落ちていて、それを採集したりしていました。できれば考古学をやりたいと思っていましたが、大学は法学部を選び、銀行に就職してサラリーマン生活をしていたのですが、縁あって、ここ埼玉で、少年時代に見た「古代」という夢の続きを見ることができて喜んでいます。
宮川さん
(取材2020年4月)
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