観光客でにぎわう川越の蔵造りの街、一番街の通りに面して、最近旧埼玉りそな銀行川越支店の築105年の建物が「りそなコエドテラス」として生まれ変わった。そのすぐ隣、屋根に変わった飾りのついた古風な蔵造りの店舗がある。店蔵と座敷は和菓子のくらづくり本舗が営業し、奥に蔵がある。この建物では明治の初めから初代~3代小林佐平が呉服太物業を営んでいた(屋号は山田屋)。奥の文庫蔵は明治16年、川越大火の前の建築で川越でも最も古い蔵の一つ。蔵の中には、昔の貴重で興味深い品々が納められており、小林家の方が「小さな蔵の博物館」として2023年から年数回公開している。
(本記事は、2024年6月の公開日、小林家5代目にあたる舘川進さん・伸子さんご夫妻のご説明をまとめたものです。掲載は展示のごく一部です)
店蔵、住まい、中庭、文庫蔵が配置、川越商家の典型
初代小林佐平は近郊農家の4男坊でしたが、川越に出てきて元治2年(1865)呉服太物業を始めました。呉服は絹織物、太物は浴衣地などの木綿のことで、その卸問屋の商売です。 この蔵(文庫蔵)は明治16年、その倉庫として建てられました。
川越の商家の典型的なパターンですが、通り沿いの一番前が商売をする店蔵、中が畳がある生活の場(住まい棟)、中庭をはさみ文庫蔵がある。今、すべてが見通せる建物は、川越でも少なくなっています。店蔵は、市指定文化財になっています。
店と住まいは当初は板ぶきでした。川越は明治26年に大火がありました。この火事で、今の蔵造りの町、一番街の中心部はほとんど焼け、残ったのは江戸時代の大澤家住宅や小林家の文庫蔵を含むいくつかの蔵だけでした。それを見た川越の商人は店を再建するなら火に強い蔵で造ろうと、今の蔵造りの街並みができました。今の蔵の町は明治26年以降にできたことになり、小林家の店蔵も明治26年造、住居棟は28年造です。
3代目佐平の時代までは商売は繁盛したようですが、昭和の中頃から洋服の時代で呉服太物の商売は衰退していき大戦前後には商売はやめたと思われます。やめた後、倉庫には生活の場で不要になったものがしまい込まれた。他のお宅では捨ててしまっているものも残っていました。表の店蔵は呉服の商売やめた後は、本屋、骨董屋などに貸与、現在はくらづくり本舗さんが使用しています。
呉服太物問屋、初代小林佐平から3代まで、激動の100年間の記録の品々
3代目佐平は東京オリンピックの翌年亡くなります。ここにある一番古い資料が初代佐平が商売を始めたいきさつが書いてある萬控帳。一番新しいのは、東京オリンピックの新聞。ここには1865年から1964年の激動の100年間の記録があります。
4代目はサラリーマン、私どもは5代目にあたります。展示公開を始めたきっかけは、20年前に文庫蔵外壁の修理をした時、4代目と5代目の母娘が中を整理したところいろいろ珍しいものが出てきたので、皆さんに観ていただくことにしました。
明治35年の埼玉県営業便覧 今も続く店が何軒か
これは明治35年出版の埼玉県営業便覧で、県内の商店の紹介をしている。川越の蔵づくりの町の地図に呉服太物卸問屋小林佐平とある。近くに菓子舗亀屋さん、まちかんという包丁屋さんなど、昔から同じ場所で同じ商売をしているところが何軒かあります。今の一番街あたりには狭い範囲に呉服・太物関係の店がたくさんありました。川越は城下町であると同時に、呉服関係の商売が盛んな町だったことがよくわかります。
川越織物市場ができるのに合せて現役世代が会を作るので参加してくださいという文書
昔印刷に使った版木には商売のあいさつ文が。達筆の字を版木屋さんが彫る。その技術が素晴らしい。明治の終わりになるとガリ版刷りが出てくる。
ガリ版刷りの原稿は、明治43年に川越織物市場ができるのに合せて会を作るので参加してくださいという織物商の若者世代が書いた文書です。小林家3代目の名もある。
明治40年東京勧業博覧会開会式列席、表彰される
3代目の日記の中に東京勧業博覧会開会式に列席のため上京とあります。勧業博覧会は明治40年に上野公園で開かれ180万の人が集まった。当時の東京の人口が500万人です。 この博覧会に浴衣の反物を出品して表彰されました。そのため開会式に呼ばれたのだと思います。博覧会を描いた風俗画報には、外国人もチラホラ見えます。日本人は洋服を着ている人はまだいない。
<2階展示>
明治16年と書いた棟札
棟木には、明治16年と書いてある棟札がそのままきれいに貼り付いています。
浴衣に模様を付ける型紙
浴衣に模様をつける型紙です。職人さんが彫刻刀で彫った模様。664枚出てきました。模様の美しさ、彫りの見事さには驚かされます。昔のものだが壊れていません。昔の人の手の技は根気強くないとできません。小林家は、型紙を買って生地と一緒に染屋さんに出していました。
店蔵の屋根の上についているマツゲのような飾り
店蔵の屋根の上についているマツゲのような飾りは「カラス」と呼ばれていたという説もあります。各地の古い資料を調べたりしていますが、結論は出ていません。しかし大火の直後に建てたものなので、火を除け、店の繁栄も願ったのではないかとも思われます。
(取材2024年6月)
小林家住宅ホームページ http://kawagoekobayashi.web.fc2.com/