清瀬には、戦前から昭和30年代にかけて、結核の療養所が集中した。その後専門の療養所は姿を消したが、現在も多くの病院と関連施設が立地し、「病院の街」の様相を呈している。患者を救っただけでなく結核に関する治療法、予防法、リハビリなど様々な面での貢献もここから生まれ、文化遺産に匹敵するとの指摘もある。
(以下は清瀬市ホームページ「清瀬と結核」、同市史編さん草子「市史で候」、「市史研究きよせ」第4号・9号、清瀬市郷土博物館展示、清瀬市市史編さん室担当者のご説明などから作成しました)
昭和6年の東京府立清瀬病院開設が皮切り
清瀬の結核の療養所は、昭和6年の東京府立清瀬病院開設に始まる。昭和の初めまで東京にある公立の結核療養所は東京・中野(江古田)の東京市療養所だけで、あふれる患者を収容するため、昭和6年に清瀬の雑木林の一角に府立清瀬病院が開かれた。これを皮切りに周辺にどんどん増えて、多い時には公立私立合わせ大小10数カ所の施設があった。
府立清瀬病院があったのは、志木街道沿い、現在の市立中央図書館、国立看護大学校の建つ一帯。最初1万1千坪の敷地に百床でスタートし、その後3万2千坪、約千床の大療養所に発展する。
清瀬病院は府立で発足したが、昭和18年に結核行政を統括する日本医療団に統合され、22年に国立療養所清瀬病院に。さらに37年清瀬病院はもう一つの国立の療養所であった東京療養所と統合し国立療養所東京病院となり、45年に病院機能は元々東京療養所のあった敷地に建った新館(東京病院)に集約された。
傷痍軍人東京療養所として始まった東京療養所
国立東京療養所は傷痍軍人東京療養所として始まった。結核で戦地から送り返されてきた傷痍軍人を収容する施設だ。療養所の運営主体は公立の他は、キリスト教があり仏教関係など宗教団体が多かった。
結核は、有効な薬が使えるようになるまで、いい空気のところで、栄養をとって、安静を保つ療養しかなかった。清瀬は広大な武蔵野雑木林が残り、それに応じた環境を提供できた。清瀬の結核療養所群は、昭和20年代までに病院街の形を成した。31年の航空写真を見ると特徴的な療養所の建物が数多く写っている。当時、一帯には結核療養所が14カ所、ベッド数は約5千。現在このうち7カ所が一般病院として存続している。
結核は昭和10年から25年まで日本人の死因第一位の病気だった。不治の病と思われ恐れられていたので、療養所の土地探しは大変で清瀬でも反対運動はあった。明治末に隣の東村山市にハンセン病の多磨全生園の前身、全生病院が開設されたが、その際も激しい反対運動があったという。
意識の高い優秀な先生方が集まる
結核と向き合おうと考える意識の高い優秀な医療関係者が集まり、清瀬で生み出された結核の診断や治療法が全国に普及、結核病学のリーダー的役割を果たしてきた。傷痍軍人の療養所は患者が早期に発見されて送り込まれてくるので比較的治る可能性があり、治療法の比較検討ができるフィールドがあったこともあった。
結核が治る病気になった後も、退院した患者は内部障害を抱え、残った肺の機能を活かしながら社会復帰をしなければならない。欧米に留学中にリハビリの現場を見た医師が日本でも必要だと実践に結びつけ、病棟から回復期の作業療法まで一貫した体系が整った。清瀬病院隣接地に昭和9年に開かれた府立静和園は我が国初の公的後保護施設であり、のちのち他にも病院の付属施設等が回復者の自立を支えた。清瀬病院が東京療養所と統合し国立療養所東京病院となった翌昭和38年に初めてのリハビリテーション学院が開設され、日本での理学療法士・作業療法士養成がスタートした。
また、臨床検査技師養成所もでき、回復者の社会復帰を助けた。結核患者の病状を判断するのにタンの中にどれくらい菌があるか検査をする。検査作業に尻込みする人が多い中、回復期患者が社会復帰する時の技能の一つとして身につけられるようにするため専門の養成所に発展した。元は東京療養所附属作業所薫風園にあったラジオの修理、ガリ版印、裁縫とかいくつかのコースがある中の一つだ。
BCGワクチンの研究開発・製造
清瀬にある結核予防会結核研究所では、細菌学、病理学、公衆衛生学などから様々な研究が行われてきたが、注目すべきはBCGで、当研究所により凍結乾燥ワクチンの大量生産が可能になった。現在はワクチン製造は、日本ビーシージー製造という会社が引き継ぎ、日本だけでなく世界約50カ国に供給している。
ソーシャルワーカーの走りというべき人達も結核患者の社会復帰に大きな貢献をし、福祉の土壌がつちかわれた。日本社会事業大学も、平成元年原宿から移転し、国立看護大学校も清瀬に開校した。
文学者と清瀬 吉行淳之介、福永武彦、石田波郷、結城昌治
作家の吉行淳之介は28年11月に清瀬病院に入院して翌年の10月に退院する。肺の悪いところだけを切取る手術ができるようになるのを見定めて入院し、手術がうまくゆきわりと短期間で退院できたという。清瀬病院で仕上げた「驟雨」という作品が入院中に芥川賞に選ばれた。当時、清瀬病院の松林を背景に撮った写真がある。退院した翌年に発表した清瀬病院の入院体験を取り入れた「漂う部屋」の口絵に載っている。
吉行淳之介と俳人の古賀まり子が同じ頃に国立療養所清瀬病院に入院していて、2024年4月に生誕100年を迎えたのを記念して清瀬市郷土博物館と中央図書館で展示を行った(12月25日まで)。
東京療養所の同じ病棟に、福永武彦、俳句の石田波郷、後の直木賞作家の結城昌治が同時に入院していた。福永は5年半いて、小説「草の花」には療養所生活が反映している。結城は当時文学はしていなかったが石田波郷の影響で俳句に目覚め、福永から海外のミステリーを借りては読み、その後作家になったという。
入院期間は時期によって違い、福永・石田の時代は、あばら骨を何本が切って悪い方の肺を萎縮させて菌を閉じ込める治療法で絶対的ではなかった。この時代は年単位で、いったん治っても菌が活性化して再発することもあり生と死が隣合っていました。その後手術で悪いところだけを切除できるようになり、ストレプトマイシンなど薬による化学療法が行われるようになると、半年とかで退院できるようになる。
現在も都内の結核病床の多くが清瀬に
現在は結核の患者が減ったので専門のサナトリウムは姿を消したが、療養所が総合病院に転じた後も、令和5年4月1日現在の数字では都内の結核病床の8割くらいが清瀬にある。一番多いのが東京病院、続いて複十字病院(前身は結核研究所付属療養所)、もう一つは清瀬リハビリテーション病院(前身は清瀬上宮病院)だ。
清瀬を世界文化遺産にしたい
清瀬病院があったところは、市の旧跡に指定され、中央図書館の隣接地に「ここに清瀬病院ありき」と書いた石碑が建っている。また、東京病院には「外気舎」が1棟だけ残してある。外気舎は木造の独立した二人部屋病舎で社会復帰を控えていろいろな生活を自分で回していく場所。ここに出られるのは快復の証でもあった。
清瀬地域は結核に苦しむ人達に療養の場を提供し医療・後保護面で様々な成果を生み出した。清瀬の渋谷金太郎前市長が、清瀬は結核にこれだけ大きな貢献をしてきたので世界遺産に値すると言っていた。
市史編さん室の香西真弓さんは、清瀬は、医療的な面でいろいろな成果を生み出したことだけでなく、「結核という病気に向き合いながら、患者だけでなく医療関係者も地域の人も、多くの人が生と死を見つめ続けた場所です。遠く離れて住んでいてもなつかしい、思いの集積地なのかもしれません。清瀬には、患者や回復者を受け容れる中で培ってきた優しい町の歴史が刻まれているのでは」と話す。
(取材2024年12月)