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すべての「合唱名山」 に登れ 木戸純生さん

横浜市に住む木戸純生(すみお)さんは、65年にわたり合唱を続けている。合唱の楽しさは、「たくさんの男女の人間の織りなす声が創造するハーモニーが、天国的な美しさとなること」と言う。多くの海外演奏もこなし、豊富な合唱歴を積み重ねた木戸さんの今後の目標は合唱の名曲をすべて歌い尽くすことだ。合唱遍歴を語っていただいた。

私生活であまり特記することはないので、わが合唱遍歴でも語ろう。
鉄道が大好きで、撮り鉄、乗り鉄など「鉄道オタク」と呼ばれている輩が多いが、周囲からは「よくやるよ」とやや冷ややかにみられているのではないだろうか。とは言う小生は合唱が大好きなので、さしずめ「合唱オタク」と自虐的に名乗っている。

幼稚園卒園式で独唱

思い起こせば、合唱遍歴は小生の通ったカトリック系幼稚園の卒園式に遡る。舞台に並んだ卒園児による合唱の中で、小生は独唱をした。それを聴いた母親は、「何と綺麗な声の少年なんだ」と感心したらしい。近眼で後方の座席で聴いていたので、それが自分の息子だとは気が付かなかった。これが縁で、幼稚園を運営していた東京・目黒の聖アンセルモ教会の聖歌隊に属して、クリスマス・イブのミサなどで賛美歌を歌った。小学校に入学すると、担任の女性教師におだてられて母親が欲を出し、NHKの放送児童合唱団に合格、入団。小学3年生から、声変わりした中学1年生まで、当時から始まった「みんなの歌」などテレビやラジオの音楽番組に出演していた。テレビ出演など当時は珍しかったから、小学校ではちょっとした有名人気分だった。児童合唱団の経験者は、一部プロへの道を進んだ声楽家を除けば、なぜかその後は音楽活動から遠ざかる人が大半なのだが、小生は合唱の楽しさが忘れられず、中学校、高校、大学と、合唱団に属していた。

一方、音痴だったので、音感をよくするために、母親の強要でピアノも習った。遊び盛りの少年にとって、毎日のピアノレッスンは苦痛だったが、小学生から高校2年生まで、ピアノ教室通いは続いた。高学年になるほど、ピアノ演奏が面白くなり、ピアノ曲を中心にしたクラシック音楽への興味は、その時培われたように思う。

坂本龍一との出会い

新宿高校に通学していた時代、忘れられない思い出がある。合唱をしていた音楽部に興味があったが、1年生の時には中学校の音楽部OBで室内合唱団の活動をしていた都合で時間が取れず、2年生の新学期に音楽部を見学に行った。そこにいたのが1年生の坂本龍一君。あの世界的なミュージシャンである。目立ちたがり屋の彼は、誰が頼んだ訳でもないのに、上級生の前で突然ドビュッシーのピアノ曲を弾いて、みんなの度肝を抜いた。小生は結局、バレーボール部に集中したため、音楽部入部は断念したのだが、その後、面白い経験が待っていた。

秋の文化祭で音楽部が演奏会を企画、その一部として男声合唱をすることになった。音楽部に在籍していた級友から誘いがあり、男声合唱(ダブルカルテットだったかもしれない)の一員として歌うことになった。メンバーにはあの坂本龍一君もいた。練習はしたものの、即席のダブカルはうまくいかず、何かの曲を歌っているうちにばらばらとなり、途中で止まってしまった。聴衆からは大失笑が起こり、我々は肩を落として舞台から引っ込んだ。苦い思い出ではあるが、坂本龍一君が世界的に有名になると、「俺はあの、世界の坂本龍一と組んで歌ったことがあるんだぜ」と、今なお自慢の種に利用している。

大学時代は男声合唱団に参加

大学に入学したら、絶対、合唱サークルに入ろうと決意していたが、小生の入った東京大学は当時、女学生が極めて少なかったので、10以上も活動していた合唱団は、ほとんどが他大学の女性を招いた混声合唱団だった。純血主義に拘る小生は希望に反して、唯一、団員を在学生に限る「コール・アカデミー」という名の男声合唱団に参加するしかなかった。演奏水準の高い管弦楽団と2団体で音楽部を構成する男声合唱団だったが、苦労が多かった。

大学紛争のあおりで入試を中止、1学年上の上級生がいなかったうえに、小生が入学する直前の冬には、この男声合唱団が欧州演奏旅行を敢行、資金もエネルギーも使い果たしていたのだ。実は当時の音楽部長を務められていたのが、経済学部の松田智雄教授で、この演奏旅行実現に尽力されたのも松田先生だったと聞いている。

男声合唱は重厚なハモリが魅力だが、後世に残るような名曲が少ないのが演奏するのに悩みの種だ。ピアノが弾けるという理由で、プロの常任指揮者にみてもらうまでの週2回の練習を指導したり、演奏会で演奏する演目などを考える学生指揮者を、すぐ上の上級生がいない分、長期間務めた。音楽部長の松田智雄先生と、同時期にご縁があったことも不思議に思う。こんなところで野村学芸財団の人脈が生きている。

会社勤務の合間に市民合唱団で活動

新聞社に入社してからも、最初の4年間の名古屋支社勤務の時は市民合唱団に入っていたし、友人といったら合唱仲間ばかりで、恥ずかしながら妻も名古屋時代の市民合唱団で見つけた。さすがに東京の本社勤務時代は超多忙で、演奏会を聴きに行くこともかなわなかったが、40歳を過ぎて、多少時間に余裕ができたころから、どうしても合唱がしたくてたまらなくなった。

再び、市民合唱団に加わり、途中、鳥取支局長として3年間の単身赴任をした時も、会社に内緒で月2回、飛行機で東京に戻って合唱活動を継続した。60歳定年を迎えると、余生は他人に遠慮しないで好きなことに熱中しようと、複数の合唱団に加わり、筋金入りの合唱オタクに相成った。

病みつきになる海外演奏旅行

最近はアマチュアでも海外演奏旅行に行くことが簡単になった。所属する合唱団が旅行会社と提携して企画、これまでに行った演奏旅行は10回ほどに及ぶ。クラシック音楽の殿堂とされるアムステルダムのコンセルトヘボウ、ニューヨークのカーネギー・ホールや、フィレンツェの花の聖母寺大聖堂などなど。海外演奏旅行は一度行くと病みつきになってしまう。

合唱歴が65年近くに及ぶという人は、あまりいないかもしれない。収集した合唱曲のCD、レコードの類も相当数にのぼり、合唱曲に限っていえばCDコレクターの中にも数少ないだろう。

合唱は何が楽しいかと言われると、たくさんの男女の人間の織りなす声が創造するハーモニーが、天国的な美しさとなるからだ。もちろん水準が高くなくてはいけないが、下手な合唱団でも瞬間的には、えも言われぬハモリは経験できる。合唱オタクに言わせると、奥が深く、どこまで行っても底が見えないのだ。

演奏会となると、独唱者、管弦楽団と共演することが多いが、このコラボレーションとケミストリー(化学反応)は何度やっても感激、感動する。財団旧奨学生のソプラノ歌手、浜田理恵さんと複数回、共演したこともある。クラシック音楽の演奏会は、演目が交響曲など管弦楽主体の演奏が多いが、合唱曲に名曲があまたあるのに、演奏機会が少ないことが不満である。

合唱オタクは、合唱曲の大曲を歌いこなすことにもこだわる。「第九」はもう歌い飽きた。合唱界では常識となっている、モーツァルト、フォーレ、ヴェルディの3大レクイエムはもちろん、3大オラトリオと呼ばれるヘンデル「メサイア」、ハイドン「天地創造」、メンデルスゾーン「エリヤ」も忘れてはならない。J・バッハの「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」「ロ短調ミサ曲」も難曲ながら、歌わないと一人前とは言えない。

 プロよりも少ない人数で、バッハのロ短調ミサ曲を演奏(本人は合唱団右から3人目、2018年7月)

合唱曲の「名山」は数限りない、完全踏破する覚悟

とはいえ、合唱曲の「名山」は数限りない。小生も歌う機会に恵まれていない曲目はまだまだある。例えばベルリオーズやドボルザークのレクイエム、ブリテンの「戦争レクイエム」、ブルックナーのミサ曲などなど。

命短し、されど名曲多し。余生に名山を完全踏破する覚悟だが、生きているうちに達成は可能なのだろうか。

少々(大いに?)自慢話になってしまったかもしれない。それにつけても、小生に幼少時代から歌やピアノを押し付けた母親には感謝しても感謝しきれない。

(本記事は、野村学芸財団の会報「野村学芸財団会報」(2018年版、同12月発行)に寄稿された随筆を2019年11月に転載させていただいたものです)

 

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