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「工都」板橋を興した 板橋火薬製造所  跡地を史跡公園化

板橋区の石神井川沿いの加賀地区は江戸時代加賀藩の屋敷があり、明治になり水車を利用し官営の火薬製造所が置かれた。それを核に様々な工場が立地し、板橋の工業発展の起点となった。火薬製造所は当時の遺構・建物が残り、板橋区では史跡公園として整備する計画だ。板橋区教育委員会生涯学習課近代化遺産利用活用担当係長山﨑直樹さん、同文化財係学芸員の杉山宗悦さんにお話をうかがった。

加賀藩の下屋敷

―ここは加賀藩の下屋敷があったそうですが、下屋敷とは。

「参勤交代で加賀の殿様が江戸にいる時は江戸の大名屋敷が住まいとなります。屋敷は上屋敷、中屋敷、下屋敷があり、上屋敷は本郷の今東京大学のある場所、中屋敷は中山道の駒込あたり、下屋敷はさらに中山道を下り板橋にありました。上屋敷に藩主が居住し、そこで政務も行う。中屋敷は、藩主が隠居して住んだり、継嗣を住まわせたり。下屋敷は、国元に帰るとき家族が見送りに来たり、逆に江戸に入ってくる時装束を整えたり、参勤交代における立ち寄り場所としての機能していました」

下屋敷御林大綱之絵図(金沢市立玉川図書館)

―非常に広かった。

「広さ21万坪あり江戸の大名屋敷で最大でした。下屋敷は単なる立ち寄り場所でなく、藩主のプライベート空間として機能していた節があります。石神井川が下屋敷の中を通っており、真ん中にその水を使って池を作っています。自然回遊式の巨大な日本庭園です。屋敷内で鷹狩りを催すこともあったようです」

―屋敷で水車を使っていたのですか。

「屋敷に水車が2基あったようです。江戸時代は粉を轢いたりもしていますが、屋敷の景色の一つであったとみられます。時代が幕末になると、諸藩が軍事力を西洋化させていく中で、石神井川の水車を使って大砲づくりを行っています」

明治9年から官営の板橋火薬製造所

―明治以降はどうなったのですか。

「明治になって21万坪が明治政府に返されます。当時は水車が動力源として最適ということで明治9年から官営の板橋火薬製造所が約3万坪でスタートします。官営の火薬製造所としては初めてです。その後、工場をどんどん拡大し、最終的には終戦時には15万坪、最大規模の火薬工場でした」

圧磨機圧輪記念碑(加賀西公園)

圧磨機圧輪記念碑説明板(火薬工場の歴史が詳しく説明)

―火薬製造所が核になり工場が立地するのですか。

「板橋に火薬工場ができ、北区側には陸軍の銃包製造所ができ、石神井川流域に軍の工場が立地します。すると、その下請けを担うような民間の工場が周辺に集まってきました。たとえば蓮沼にトプコン(旧東京光学機械)という会社がありますが、昭和の初め頃陸軍とのつながりの中で創設されました。今板橋には光学系の会社が多くありますが、軍需工場の流れをくんでいます」

―板橋の工業の起点が火薬工場であったということですか。

「板橋は工業生産額が23区内で大田区に次いで大きく『工都』、『光都』と言われることもありますが、明治9年の火薬製造所から始まったと言えると思います」

跡に戦後理化学研究所が入居

―戦後火薬製造所跡地はどうなったのですか。

「民間の工場、学校、研究所などが入りました。工場としては、たとえば明治製菓、ピジョンオルゴール、資生堂など。研究所としては野口研究所、理化学研究所です」

―野口研究所とは。

「戦後火薬工場跡に入った化学系の研究所です。今は移転しています」

―理化学研究所は今の和光市にある理研ですか。

「そうです。理化学研究所は昭和21年頃火薬工場の物理試験室と爆薬理学試験室という2棟に入り、5、6年前まで70年以上古い建物を修理しながら研究活動を行っていました。仁科芳雄を主任とする宇宙線研究室が入居し、湯川秀樹も一次在籍していました」

理研が使っていた物理試験室(板橋区ホームページ)

―現存している火薬工場の遺構はどんなものがありますか。

「理研が使っていた物理試験室は石神井川の北側にフェンス越しに見られます。明治40年頃の建物と言われていますが、関東大震災を耐え戦後まで使われていたわけです。

加賀公園の築山。下屋敷にあった人工の山ですが、火薬工場の発射試験の的として使用されました。野口研究所のあった建物は火薬を研究する施設として使われており、弾道管、燃焼実験室など戦前の遺構が残っています。弾道管は発射試験用で、現存するのは2基だけです」

加賀公園の築山

弾道管(板橋区提供)

―圧磨機圧輪記念碑とは。

「明治時代の火薬を作る機械です。ここに火薬製造所の本部があり、大正時代に陸軍がモニュメントにして今加賀西公園に設置されています」

板橋火薬製造所跡は平成29年に国の史跡に指定される

―史跡を公園として整備される。

史跡の範囲(板橋区提供)

「板橋火薬製造所跡は平成29年に国の史跡に指定され、区としては近代化遺産を保存活用し、史跡公園として整備する計画です。近代化遺産の史跡公園は都内では例がありません。今調査、計画の段階で、令和6年から設計作業に入る予定です。石神井川沿いの散策路や周辺の史跡を含め広域的にとらえた整備を検討しています」

(取材2021年8月)

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