2024年10月26日(土)、富士見市の資料館友の会ふるさと探訪部会と難波田城資料館主催の第41回ふるさと探訪が開かれました。今回は「河越氏館周辺を歩く~義経正室の里を訪ねる~」と題し、川越市上戸(うわど)の、平安から鎌倉時代にかけ武蔵の有力な武士であった河越氏の館跡周辺を歩きました。曇り空でしたが雨はなく、歩きながら歴史の勉強をさせていただきました。特に、河越重頼の娘で源義経の正室となった京姫の悲劇の物語が印象に残りました。
霞ヶ関駅
東京の霞ケ関は「ケ」が大文字で、東上線の駅名は小文字です。ただ地名の霞ケ関は大文字。駅が大正5年に開設され、当時は「的場」という駅名でした。昭和5年に霞ヶ関カンツリー倶楽部ができて、駅名が変更になりました。今は霞ヶ関駅は東上線だけの駅ですが、昔は埼玉県営鉄道という線路がありました。入間川までの砂利を運ぶ鉄道です。できたのが大正8年、なくなったのが昭和32年。東上線と線路の規格が異なり連結できず、駅で砂利を積み替えていました。今は川越線との交差部分に橋脚が残るだけです。
このあたりは 古代に東山道と東海道を結ぶ東山道武蔵路があり、交通の要衝で、霞ケ関遺跡は古代の入間郡家があったところです。
入間川鉄橋跡
大正5年にできた入間川鉄橋の橋台です(霞ヶ関駅側)。入間川の向こう側(川越市駅側)にも残っています。線路が複線化された時に廃止されました。
田面沢駅
東上線は開業が大正3年5月で、最初池袋から田面沢(たのもざわ)という駅まで開通しました。入間川の川越側の岸にあった、鉄橋をかけるまでの臨時の駅。2年後の大正5年、鉄橋ができて 坂戸駅まで開通した時、いったんは廃止されましたが、今度は大正9年入間川水泳場駅という駅ができます。泳げる夏だけの臨時の駅でした。戦争が激しくなり使われなくなり、今は駅の跡は残っていません。
秩父氏と河越氏
河越氏は平安末期から鎌倉にかけて武蔵国最大の武士団でした。桓武平氏の一門である秩父氏の流れです。秩父氏は山間部から平野部へ出て現在の嵐山の大蔵に定着しましたが、 12世紀の中頃、河越重頼の祖父、重隆の時代にある大事件に巻き込まれます(大蔵館の戦い)。頼朝の父源義朝が一帯を制圧しようと息子の悪源太義平を攻め込ませる。その時孫の重頼が逃げ出して河越の地に拠点を作ったのが河越館の始まりです。このように河越氏は元々は秩父平氏です。重頼の従兄弟が畠山重忠。重忠と河越氏は武蔵国の武将のトップを巡って争い、大蔵館の戦いで畠山は義平の側についた。みんな頼朝の部下になった時、重頼は義経との関係で滅ぼされる。その後重忠が武蔵国のトップの座につく。後に、重忠が北条氏に攻め滅ぼされる時に河越氏の生き残りが北条側について復讐する。承久の乱の時幕府軍の先鋒を務めたり、その手柄により河越氏は復権、この地で武蔵国の最大の御家人として鎌倉時代を乗り切ります。しかし次の室町時代になり、足利尊氏と弟の兄弟争い(観応の擾乱)などに巻き込まれ、関東管領上杉憲顕の大軍に包囲され、制圧されました。河越氏は伊勢国に逃れ、現在まで続いているそうです。
太田道灌と河越城(川越城)
河越氏の時代は江戸は何もなかった。むしろ河越の延長で江戸が作られていきました。太田道灌が武蔵国で勢力をはる時の一番大事な軍事的要衝が河越と江戸と岩槻。この河越の地に道灌は河越城(江戸時代から川越城)を作るが、場所は川の向こう、河越大地の上でした。河越館は軍事的なお城の要素は小さく、平坦なところに100m四方の館を構えているに過ぎず、室町時代の最初に上杉氏によって簡単に攻め滅ぼされてしまった。それから数十年後に太田道灌が軍事要塞を作るにあたり、ここはダメだと、川向こうに強力な城を作ることになる。
頼朝、義経、京姫
頼朝にとって河越氏は大事な武蔵最大の豪族であり、取り込むため自分の弟に河越氏の娘を嫁がせ一族化を図った。しかし義経と頼朝の仲がこじれ、河越氏の立場がまずいことになる。巻き込まれた悲劇のお姫様が京姫と呼ばれる郷御前。哀れなお姫様の物語です。
京塚
このお地蔵様は地元では夜泣き地蔵と呼ばれているが、この塚にはもう一つの伝説がある。別名、京(経)塚。江戸時代の後期に作られた「新編武蔵風土記」の河越の荘のところに、「高さ7、8尺の塚あり地元では昔より経塚と呼ばれている。由来はよくわからないがお経を埋めた塚ではないか」、と書いてある。「きょう」は「経」もあるがもう一つ「京」がある。ここには「京姫」というお姫様が埋葬されたという伝説がある。京姫は源義経の奥さん。義経の奥さんというと一般的には静御前とか平大納言時忠の娘とかがドラマに出てくるが全部妾である。正式な奥さんは河越重頼の娘郷御前、地元では京姫と呼んでいる。正式な歴史では、京姫は義経が頼朝と対立して奥州平泉へ落ち延びる時一緒に行き、1189年平泉で義経が滅ぼされる時に小さな娘とともに死んだとなってる。ところがいろいろと疑わしいことがある。果たして京都から平泉まで20歳前後の女性が生まれたばかりの1歳の女の赤ちゃんを連れて義経や弁慶と一緒に山の中を10ヶ月間歩けるのか。こちらの地元に伝わる古いお話で「埼玉県の民話と伝承」に書いてあるのは、京姫は逃げて帰ってふるさとの河越にたどり着いたが、河越館は頼朝軍に占領されていて、中に入れなかった。父重頼は頼朝に殺された直後です。生き残った人達は館の周りでひっそりと息をひそめていた。京姫は結局その地で病になり亡くなった。もしかしたらここが京姫が亡くなった屋敷の跡で、京姫が埋葬されているのではないかという推理ができます。ここから200mほどの森が河越館の中心部です。
常楽寺
河越館跡の一角にある時宗のお寺です。河越氏の敷地内にあった先祖を供養する場所、持仏堂が元になり発展しました。河越重頼、京姫、義経の供養塔が建っています。中興開基は後北条氏の重臣である大道寺政繁。河越館は政繁の砦として使用され、1590年小田原城落城で、政繁は秀吉の命でこの地で自害しました。
河越館跡史跡公園
国指定史跡の河越館跡は、平安時代末期から南北朝時代にかけ武蔵国で有数の勢力を誇った河越氏の居館跡。河越氏滅亡後、室町時代には時宗の道場、戦国時代には山内上杉氏の陣所、後北条氏の重臣大道寺政繁の砦として使用されました。1984年、49000㎡が国指定史跡となりました。中世の鎌倉武士の館は1町四方の正方形が標準で、周りに深さ1~2㍍の濠を掘り、簡単な塀で囲むだけの構造です。
長福寺
曹洞宗の寺で、太田道灌の像があります。道灌の像は、川越市役所の前、旧東京都庁の前など関東に11あるが、ほとんど武将の姿です。ここにあるのは、平成23年に制作され一番新しく、嗣法(しほう)と言って、出家して悟りを開いた証明を僧侶からいただいた時の姿です。出家僧の道灌の像は非常に珍しい。
八坂神社とヒイラギ
普段は静かだが、お祭りがにぎやかです。鯨井万作踊りという祭礼が文化財になっています。最後は500mほど離れた川にみんなで入る。ヒイラギは高さ約10㍍の古木。直径1m50㎝、周りは4m50㎝あったが、今は幹が空洞になっている。道路を広げた時に移植した。ヒイラギの古木はあまり例がなく、昭和33年文化財に指定されています。
上戸日枝神社
元々は河越重頼が京都の新日枝山王社(いまひえさんのうしゃ)にこの土地を寄進し河越莊の責任者となり、総鎮守として1160年山王社を勧請しました。明治の神仏分離で日枝神社となりました。1260年、河越経重(つねしげ、重頼の孫)が新日枝神社に銅鐘を寄進、その鐘は現在重頼の墓のある川越市内の養寿院に置かれています(国の重要文化財)。