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川越街道・
松平信綱と平林寺(1)
小泉 功

  東武東上線と川越街道は、ほぼ平行して通っている。その川越街道にかつて沿っていた、新座市の平林寺は、松平信綱の菩提寺である。
 川越街道の入口には、今も「金鳳山・平林寺」の碑が建っていて、参詣者の目を引く。
 そこで川越街道の成立からひもといてみよう。

平林寺にある松平信綱の墓所


 江戸・川越間の交通としては、新河岸川の舟運とともに、陸路では川越仙波東照宮参詣に際して、川越街道の新道を完成させている。

 仙波東照宮の創建は寛永十年(1633)で、川越街道の新道も同年には完成していたことがうかがえる。

 『徳川実紀』には、慶長六年(1601)以来、家康・秀忠が度々川越方面を訪れ、鷹狩りを楽しんでいる。家光も大の鷹狩り好きで、元和四年(1618)世子時代に、川越城主酒井忠利の城に宿泊し、鷹狩りを行っている。『同紀』によると、「26日、家光は川越に赴き、川越近辺の「すもの谷」で8日に鷹狩りを行っている。10日には酒井忠利の川越城に宿泊し、城中の高楼にのぼって四方を眺望する。その折に、幕府最高の儒学者である林羅山が賦した詩が『羅山文集』にある。

原野超々四顧中

一行白鷺数行鴻

祈今海内東風暖

潤色春雲花気紅

  

 川越城の富士見櫓に登ってみると、広々として自然が巡り、白鷺(しらさぎ)の群れが、行を形成して大きく飛んでいく。暖かい東風がふき春の雲は紅の花の気を運んでくれる。川越が豊かな自然に恵まれた地域であることをうたっている。翌11日には、川越近辺で猟を行い、13日には鴻菓辺りにまで足をのばして鷹狩りに興じている。13日には雁45羽、18日に雁・鴨150羽とを獲り、使い人をたて、父秀忠にも送っている。24日、長期間の猟を終え、家光は馬を風雷のごとく走らせ、侍臣は一人も従えなかったとのこと。8日の鹿猟は、すもの谷で、現在の「鹿飼」(ししがい)=川越工業団地一帯の地域であろう。

 これらの資料では、家康→家光らの江戸・川越間の往来について具体的な記述はみられないが、川越街道を利用していることは考えられる。太田道灌が15世紀中葉から、北条氏が16世紀後半に利用した川越街道は古道と称するもので、田舎道をつなぎ合わせた街道であった。家光が疾風迅雷のごとく馬を走らせたのは、新道の川越街道であった。

 この川越街道は東海道・中山道・日光道中・奥州道中などの5街道とは異なり、中山道から分かれた脇街道で、「川越往還」とも呼ばれていた。

 江戸の板橋宿追分(現・板橋9丁目)で分岐し、川越街道がはじまる。上板橋・下練馬の宿を経て埼玉県内に入り、白子(和光市)、膝折(朝霞市)、大和田(新座市)の3宿と大井宿(ふじみ野市)を経て川越に至る道程を「川越街道」という。

 その先の交通路は、南は所沢・府中を経て小田原に至り、北は松山(東松山市)から熊谷に達し、中山道に合流するのが主要な道であった。

 家康の関東入府によって江戸への往来が繁くなり、白子・膝折・大和田・大井の4宿が置かれたのである。したがって、松山・熊谷で中山道とドッキングする道は、川越街道の延長上にあって、中山道に通じる脇街道として、その使命を果たしていた。

 川越街道が完備するのは、松平信綱・輝綱の時期である。

        古歌(玉葉)

   旅人の行かた行くにふみ分けて道あまたある
   むさし野の原

  (故人、川越市文化財保護審議会会長=当時)

(「東上沿線物語」第22号=20093月に掲載した記事を20212月再掲しました)