東上沿線を代表する観光都市の川越は、重厚な観音開きの扉、墨色の瓦屋根、大きな鬼瓦、黒漆喰。堂々と自信に満ちた蔵が連なる街並みが全国的に知られています。川越が観光客を惹きつけるのは、歴史を感じさせる蔵造の街並みだけでなく、地域の文化が生み出した食文化を見落としてはいけません。川越の食文化は武蔵野台地に育った甘藷(さつま芋)が有名ですが、庶民の菓子である駄菓子も見逃せません。その駄菓子屋が集まっている菓子屋横丁は、観光面でも重要な役割を果たしています。
蔵造りの町並み
埼玉県川越市は、江戸時代、徳川幕府が西北を固める防衛拠点として築かれた川越藩の城下町で、徳川親藩として松平信綱や柳沢吉保など歴代の藩主は幕府の重臣を勤めていました。中でも松平信綱は、江戸初期に起きた寛永の大火後、川越城の拡張と町の整備を大々的に行い、町の基盤を整備しました。信綱はこれに並行して新河岸川の舟運を開き、陸路の川越街道とともに江戸との結びつきをより強固にして、その後の川越経済の発展に大きく寄与しました。
松平信綱が開いた新河岸川の舟運は明治の初期にかけて活用され、川越からは近在で収穫された米、麦、甘藷(さつま芋)等の農産物や木材などを江戸に供給し、江戸からは日用雑貨や肥料類が川越に運び込まれたと伝えられています。陸路の利便性と相まい、川越は物流とそれに伴う金融の拠点となって川越は城下町でありながら商人達が活躍する商都市に成長し、独自の地域文化を生み出したのではないでしょうか。
有名になった蔵造りの町並みが川越に出現したのは、約130年前の明治26(1893)年に起きた大火が契機です。この大火で川越市街地の3分の1が焼失し、商業地で残されたのは数軒の土蔵だけだったと言われます。これを教訓に川越の商人達は、火事に強い蔵をこぞって建てたのでした。
しかし戦後になると川越の商業活動は衰退して町を歩く人もめっきり減ってしまいました。これに危機感を持った当時の若手経営者達は、町を何とかしようとアイディアを巡らします。その一つが中央通りに面した各商店の蔵が作り出している独自の風景を活かした町並み整備でした。
川越の芋菓子
川越といえば甘藷(さつま芋)を思い浮かべる方も多いと思います。川越で甘藷が収穫されるようになったのは、関東に甘藷を普及させたことで有名な青木昆陽(1698~1769年)が没する前年頃と伝えられます。もともと甘藷は代用食で、保存が容易であることから、栽培は農家の副業とされていました。
甘藷は開墾された武蔵野の地味が適合したのか、川越で栽培された甘藷は味が良く、江戸の町民達にもてはやされました。江戸の焼芋屋は、江戸と川越の距離(十三里)をもじって「栗(九里)より(四里)うまい十三里」と謳いながら川越甘藷を売り歩き、江戸中にその名が広まったとも言われます。
川越では甘藷を利用した多くの芋菓子も作られました。川越市内で長らく和菓子店を営んでいる方に伺うと、川越の菓子は城下町の伝統を引き継いだ上菓子もさることながら、商人が活躍した土地柄を反映して地域の食材を活かした庶民的な菓子が古くから作られていたようです。ただ菓子工房の規模は零細で、明治期まで工房数もそれほど多くなかったようです。川越の菓子造りが大きな転機を迎えたのは、大正12(1924)年の関東大震災でした。
川越菓子工房の変遷
関東大震災により都内の神田、浅草、錦糸町などにあった都内の菓子工房が壊滅的な打撃を受けて菓子作りが出来なくなると、被害の少なかった川越の菓子工房に東京の業者から買い付けが殺到しました。当時は注文に注文が重なって捌ききれないほどの盛況だったようです。震災の後には川越の菓子作りが繁盛している様子を眺めた東京の菓子職人が川越の菓子工房を移し、これが新しい製造技術を普及させることになりました。
川越の菓子工房も数を増して昭和9(1934)年頃には70軒以上の工房が軒を連ねました。当時、菓子工房が集まっていた場所は、中央通りである蔵造の町並み左奥にある曹洞宗養寿院の北側で、一部は県道の高澤通りを超えて大蓮寺の門前通りまで広がっていました。現在の菓子屋横丁は、以前菓子工房群があった場所の一部ということになります。
川越の駄菓子工房群は、昭和初期に最盛期を迎えて東京はもとより栃木、群馬、八王子、青梅方面まで販路が拡大、当時の菓子産地であった伊勢や名古屋と肩を並べるほどの生産量を誇ったと言われます。繁栄していた川越菓子工房群でしたが、戦争の影響を受けて経営が厳しくなりました。
昭和12(1937)年の日中戦争から昭和18(1943)年の太平洋戦争へと続く戦時期に若い職人達が徴用され、かつ菓子の材料も入手困難になって菓子工房は仕事ができない状態に追い込まれたのです。戦後は一時的に注文が回復する場面も見られましたが長く続かず、米国から流入したキャンディ、チョコレート、ビスケットなどに押されて川越菓子に対する注文が減退、後継者難にも見舞われて菓子工房は次々と閉鎖され、昭和50年代初めには工房数は7~8軒に激減する有様でした。
菓子屋横丁の誕生
しかし、ふとしたことから残された川越菓子工房に転機が訪れました。昭和13(1938)年に父親が創業した菓子工房を引き継いだ稲葉屋本舗の長井和男さん(82歳)が、昭和50年代初めに子供たちの勉強部屋を作りために家屋を改築した際、大工さんの助言もあって一階に間口一間の小売スペースを設けたのが事の始まりです。
それまで長井さんは、餡をカステラで挟んだトラ巻、むぎ棒、キノコパンなどの駄菓子を製造して仲買人に卸す製造卸をしていましたが、経営は芳しくなく、日中は他社のサラリーマンとなって給料を稼いで生計を賄う状態が長く続いていました。そうした状況から長井さんは「小売りといっても、多少の現金収入を稼ぐ程度のつもりだった」と話されています。
ちょうどその頃、若手経営者の努力が実を結び始め、川越の蔵造りの街並みが雑誌やテレビ番組に取りあげられ、休日にはアマチュアカメラマンが川越を訪れるようになり、観光客も徐々に集まり始めていました。長井さんは、それまでの商品では差別化が難しかろうと、父親が作っていた芋ドーナツに自分なりの工夫を凝らして販売しました。長井さんが作った芋ドーナツは、それまで油で揚げたドーナツ皮に塗していた砂糖を除いてドーナツの食感と甘藷アンの甘味で勝負した素朴な商品です。
ところがこの芋ドーナツが飛ぶように売れて店頭販売が大繁盛となり、永井さんはサリーマンをやめて店頭販売に専念しました。長井さんは作った芋ドーナツが好評を得た理由を「当時、蔵造りの建物が並ぶ中央通りには土産物の菓子を売る店が少なかったことや健康食として甘藷が見直されたことも幸いした」と分析されています。
長井さんが菓子の製造卸から製造小売りに業態転換した時期に町内の玉力製菓、松本製菓も製造小売りを開始すると、観光客が集まるようになりました。これに刺激された他店も小売業に進出するようになって輪が広がり、昭和60(1985)年には界隈の菓子小売店が10店舗に拡大しました。翌昭和61(1986)年には川越製菓組合を母体にした「菓子屋横丁会」が発足、その後も業態転換や新規参入組を併せて今でも30軒近くの駄菓子屋や軽飲食店が参加しています。
菓子屋横丁は、平成13年に環境庁主催の「かおり風景百選」に選ばれ、平成2年(1990年)には国土交通省の「歴みち」事業によって歩道が石畳へと整備、翌年には電柱地中化工事が行われて町並みも整備されました。平成13年(2001年)には、環境省の「かおり風景100選」に選定されて菓子屋横丁は川越を代表する全国的な名所となったのです。
菓子屋横丁という名称は川越市役所の若手職員が考案した名称ですが、名称に違わず、横丁には人をホッとさせる空気感が漂っています。横丁は世界どこの町でも一般庶民が暮らす一画で、路地が走る風景は人々の生活感が漂っています。川越を訪れる観光客は、蔵造りの街並みをそぞろ歩き、その一番奥にある菓子屋横丁に立ち寄って一息つくのが当たり前の姿となりました。毎年公表されている川越市観光アンケート調査報告書でも、川越を訪れる観光客の7~8割が菓子屋横丁に立ち寄るとしています。
火災に見舞われた菓子屋横丁
順調に発展してきた菓子屋横丁ですが、平成27年(2015年)に火災に見舞われました。同年6月21日(日)正午頃に菓子屋横丁の北西にある店舗から出火し、瞬く間に近隣に延焼、5棟が全焼、6棟が部分消失したのです。全焼した店舗には上述した稲葉屋本舗も含まれていました。火の廻りは早く店主の長井さんは燃え上がる自分の店を目の前に「何をしていいか分からず、ただ茫然と眺めるだけでした」と悔しさを語ってくれました。
しかし、菓子屋横丁会の皆さんはしたたかです。火災から約一週間後には復興に向けた話し合いを始めました。話し合いも前向きで、店主たちから「建物を再建するだけでなく、もっと魅力のある菓子屋横丁にしよう」という意見が強く出されました。その後の話し合いは、町づくりの専門家を交えて横丁再建に関する実務的な問題に加えて、横丁らしさとは何か、景観形成のルールなど多岐にわたりました。火災を契機に新たな菓子屋横丁を作ろうと一致団結したのです。
復興に係る費用の一部は川越市が拠出したほか、市内286の自治会からや全国の人々から義援金が寄せられ、義援金の総額は約1,300万円に達しました。義援金の一部は、被災された店舗や住宅への見舞金として使われましたが、多くは横丁全体の復興に向け、街路灯、看板・地図の設置や傷んだ石畳の修復、屋外消火栓の設置などに使われたとのことです。
焼失した店舗の復旧は個別に行われましたが、横丁会は復興を町並み整備のモデルにしようと会則に重要伝統的建造物群保存地区に準じた景観基準を設けて菓子屋横丁の景観を損なわないようにしました。県道に面した稲葉屋本舗は、この方針を踏まえた町屋風の新しい建物を建築して翌2016年のゴールデンウイークに営業を再開しました。他の店舗では若干の業態の変更や入れ替わりがあったものの、2017年には全ての営業が再開されて賑わいを取り戻しました。
コロナ禍を超えて
火災からの復興が進んで菓子屋横丁を訪れる観光客も回復し、さらなる増加が期待されていた令和2(2020)年コロナ禍が発生しました。令和元(2019)年に775万人を超えていた川越市の入込観光客数は半分の385万人に激減、翌令和3(2021)年以降も低迷状態が続きました。
菓子屋横丁も人通りが閑散となってしまいました。普段なら売り上げを底支えしてくれる女性客の足が遠のいて、各店舗の経営は2年以上も低迷を強いられました。経営者の方々が味わっている苦労は大変なものだったでしょう。
しかし、ここにきてようやく出口が近づいています。人々の外出我慢も限界に達しています。本稿を取材するため3月上旬に何回か菓子屋横丁を訪れましたが、楽しそうに散策する若い女性グループやカップルが目立ちました。政府も、コロナ禍の状況が改善しているとして飲食店に対する蔓延防止重点措置を3月21日に解除したことから、春以降は観光客の回復が見込めます。
ただ、菓子屋横丁がこの先も末永く繁栄を続けようとするならば、コロナ禍で味わった経験を踏まえた取り組みが必要です。5年前の火災で一致協力して新しい横丁を再建した菓子屋横丁会の皆さん方です。横丁会の皆さんがどの様な取り組みが展開されるのか期待しましょう。
本稿を執筆する際には稲葉屋本舗の長井さんに大変お世話になりました。感謝申し上げます。
長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。
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