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長谷川清の地域探見(17)数寄者研究者大塚融氏に聞く:加賀正太郎と蘭花譜(その4)

現代の加賀正太郎に対する評価は、彼自身が栽培した洋蘭の新種や優良種、奇種の姿を木版画に移した蘭花譜の発刊を抜きに考えることが出来ません。蘭花譜は、敗戦後の日本社会が大混乱する中で敢えて発刊されました。それから60年近くたった2003(平成16)年、原画12点分の版木が発見されて大塚さんは再摺りプロジェクトを主導します。今回は、大塚さんに蘭花譜が生み出したドラマを語っていただきます。

蘭花譜第一輯の発刊

長谷川 加賀正太郎は、蘭花譜を敗戦から5か月後の日本社会が大混乱し、美術なぞに見向きもされない1946(昭和21)年1月に刊行しました。確かに木版の摺り作業は昭和16年頃に一段落して残された作業は多くありませんが、社会状況を考えると何とも異常ですね。普通の人なら、社会の落ち着きを待って蘭花譜を刊行するのが普通だと思います。

大塚 私が数寄者の中でも加賀正太郎を評価しているのは正にそこだね。近代の日本が直面した最も困難な状況下で正太郎が敢えて蘭花譜を刊行したのは、彼独自の尋常ではない価値判断があったと私は考えています。

一つは挫折した日本社会の復興に向けた正太郎なりの努力です。青年時代に外交官を志した正太郎は、満州事変を契機にした日本の国際連盟の脱退による孤立を危惧、彼自身が民間外交に乗り出すため欧米の外交官や学者の好む洋蘭を伝統木版画に仕立て寄贈することを考えたのが「蘭花譜」のはじまりです。

終戦直後の困難な状況で蘭花譜を刊行すること自体が、欧米の指導層に日本人が平和を求め、壊滅した社会を復興させようとする強い意志があることを訴える手立てになると確信したのではないでしょうか。

もう一つは、加賀正太郎が己れの美意識の終着点を意識したことだと思います。これまでも言っているように、加賀正太郎は冷静かつ合理的な思考ができる人物で、戦争に敗れたことにより加賀商店の経営基盤が失われ、かつ自分自身も年齢面から肉体の限界が近づいていることを自覚したのでしょう。もともと蘭花譜は、自分が栽培した洋蘭を欧米人好みのボタニカルアートとして正確に写して後世に残そうと考えて制作していたわけですから、加賀商店の財力と自分の気力・体力が残されているうちに蘭花譜を刊行しなければ、機会を失ってしまうと判断したのだと思います。

そう考えると、狂気にも似た冷静な美意識で敗戦後の混乱期に蘭花譜の刊行を決断した数寄者加賀正太郎に感嘆しますね。もっと言うと、時勢を見るこれほどの冷徹な人材が日本の指導者層にいてくれたならば、あの無謀な戦争を避けることも出来たであろうにとも思います。

加賀正太郎
蘭花譜を見る加賀正太郎(大塚融氏提供)

長谷川 加賀正太郎は蘭花譜序に、「蘭花譜第一輯は三百部限定版として、自費を以って刊行して、内百部を世界各国の有力なる大学の好き植物学教室に寄贈し、残り二百部を市販して第二輯作製の資に当てようと思った」と書いています。現在、インターネット上に流れている蘭花譜の解説記事は、大体、この記述を基にしていますが、第一輯が刊行された時期を考えると正太郎の意図通りことが進んだとは思えないのですが。

大塚 私が調べた限り、外国の有力大学に蘭花譜を送ったことは確認できていません。あの重い「蘭花譜」を百部も外国に送るには当時は船でしか運べないうえ輸送費も莫大な金額です。序文に書かれているのは正太郎が当初に考えた希望であって、生活物資以外の輸送に船が確保できるとは思えません。

「蘭花譜」三百部は殆ど世に知られることなく一部の蘭愛好家や洋蘭栽培業者が購入するだけで、美術品としての価値が評価されることになったのは、私が本格的に取材に取り組んだ1980年代以降です。いまでも洋蘭栽培業者で複数セット持っている方がいるのは、美術品としてよりも戦後の加賀家の暮しを助けるため購入したからです。また加賀正太郎が亡くなった直後養子の行三さんがある団体に寄贈しました。ところが私がその団体で講演することになり、寄贈された「蘭花譜」を念のため書庫から出してもらったら、書庫に積み重ねたままおいて何十年と見る人がなかったようで、美しい画が湿気ですべて真っ黒になってました。

長谷川 刊行された蘭花譜は「第一輯」とされています。ということは、加賀正太郎が蘭花譜の第二輯も用意していたということでしょうか。

大塚 戦前の企画段階では第二輯も発刊するつもりだったので、池田瑞月は3千枚の下絵を描いていたことが昭和16年ころの新聞記事に載ってます。亡くなる数か月前に東京の行三さんのお宅に伺ったとき、蘭花譜の原画が何枚も壁に飾ってありました。

戦後の加賀家ですが、超インフレが日本を襲う中で政府は戦争で破綻した財政の立て直しを図るために1946(昭和21)年に預金封鎖と資産課税を実施し、1950(昭和25)年には富裕税を導入します。正太郎が予見したとおり、一連の政策で敗戦後数年で戦前の資産家はほとんどが没落してしまいました。加賀家も例外でありません。

一時期は大山崎山荘で栽培した洋蘭を進駐軍に売って収入を得たこともありました。洋蘭を愛好する占領軍の将校との繋がりができ、洋蘭を東京まで貨車や米軍の飛行機で輸送して幹部のパーティーを飾ったようです。

その関連だと思いますが、GHQマッカーサー最高司令官の夫人に「蘭花譜」を贈って喜ばれ、お返しに温室ボイラー燃料のコークスを優先的に割り当てられたとも聞いています。ただアメリカ在住の友人に、マッカーサー資料館にあるか調べてもらいましたが、無いようですから、マッカーサー邸に飾られているかもしれません。

でも正太郎の洋蘭栽培は、あくまでも数寄者として自分の美意識を表現する手段であって商売ではありません。当然、販売できる洋蘭のする種類と数量は限られて加賀家の状況を改善するまでには至りません。第二輯の刊行は加賀家の資金事情からも困難で、ましてや職人も材料も調達が不可能となって正太郎は計画を進めることが出来なくなりました。蘭花譜序にも「然しそれも空しき希望であろう」と諦観した言葉が記されています。

 加賀正太郎の死

長谷川 蘭花譜第一輯を刊行した5年後の1951(昭和26)年に加賀正太郎は喉頭癌を発病してしまいます。そして1954(昭和29)年に亡くなりました。享年は66歳でした。正太郎の発病と死を考えると、結果的に蘭花譜はギリギリのタイミングで発刊されたわけですね。

大塚 一流の美術品にはドラマがあるというけれど、加賀正太郎と蘭花譜にもドラがあるね。そう言えば、喉頭癌に冒されて声帯を失った加賀正太郎は一枚の紙の表裏に和文と得意の英文で印刷した挨拶文を作ったのだけれど、これが面白い。ちょっと読んでみましょう。

「多年に亘る毒舌が神様の御意に反したか、老人になって舌禍を避けよとの佛陀の御慈悲ででもあるのか、63歳を一期として唖になって了いました馴れるまで暫く淋しい事と思います。(中略)希くは新米の唖に対して、なるべく『イエス』か『ノウ』で御答へ出来る様御話しかけ下さる事を御願い致します 1951年5月 加賀正太郎敬白」

いかにも正太郎らしい簡明でポイントを押さえた文章だね。惜しまれながら加賀正太郎は1954年8月8日に亡くなり、葬儀は半世紀近い歳月をかけて造り上げた大山崎山荘の応接間で手塩にかけて栽培した洋蘭たちに包まれで行なわれました。正太郎もさぞ満足してくれたでしょう。洋蘭栽培の盟友だった後藤兼吉は、葬儀が終わると直ちに山荘を引き払って東京に引き上げてしまいした。兼吉にとって正太郎がいなくなった大山崎山荘には未練はありません。

長谷川 また素朴な質問ですが、正太郎の死後、蘭花譜のために描かれた原画や作られた版木はどうなったのでしょう。

大塚 池田瑞月が描いた大山崎山荘の洋蘭の原画は、昭和15(1940)年頃に3千枚程あったようです。私が養子の行三さんが亡くなる4か月前、彼が暮らしていた東京のマンションに訪ねた際、数枚の原画が額に入れて飾られていたことを思い出します。

行三さんが亡くなった後、原画はスイスに住む行三さんの息子の加賀誠太郎が保管してましたが、3千枚のうちの幾らかが地元の大山崎町歴史資料館に寄託されました。加賀誠太郎は、加賀家ゆかりの「加賀証券」関係の資料なども京都府に多数寄贈しており、その一部は京都文化博物館で管理されています。妙なことに京都文化資料館に寄贈された史料はいまだに公開されてません。

問題は蘭花譜の版木です。蘭花譜第一輯に使用した木版画の版木は、蘭花譜序によればすべて大山崎山荘に保管されたはずですが、大山崎山荘の別宅に住む加賀正太郎の甥で私が何度も取材した加賀高之さんの話では戦争中に温室の暖房用燃料が枯渇してしまい、止むなく版木を燃料に使ってしまって版木は無いはずだとのことでした。

 再摺り企画の実現

長谷川 その無くなってしまったと思われていた蘭花譜の版木が見つかったわけですね。これもドラマチックな話ですね。

大塚 ちょうど加賀正太郎が亡くなって半世紀たった2003(平成15)年に、名人摺師として有名だった両国に住む新味三郎さんの展覧会を墨田区役所が開くことになり、新味さんに御出入りの木版画専門の版元芸艸堂(うんそうどう)が京都寺町の本社の蔵をを探っている最中に蘭花譜の原画12点分の版木が発見されたのです。

芸艸堂の倉庫に立つ大塚融さんと芸艸堂の早光照子さん

発見された版木は全部で160枚ほどで、1937(昭和12)年5月から1938(昭和13)年4月にかけて京都と東京で発行された新聞に包まれ、荒縄で括られていました。芸艸堂の蔵には浮世絵や現代版画の版木がたくさん保存されているのですが、なぜ芸艸堂の蔵に蘭花譜の原画12枚分の版木が残されたのか今もって分りません。

その翌年の2004(平成16)年2月ですが、東京ドームで開催される恒例の世界らん展に集まった方々に蘭花譜の版木が発見されたことを伝えて、「この12点の再刷りを実現したい」と世界らん展の主宰者・資生堂の福原義信さんや洋蘭栽培関係者に打診しました。でも、反応が全くありません。

 それで大阪に戻って、「自分の身銭をきってでも再刷りを実現したい」と思案してたところに、墨田区にあった美術印刷の老舗として有名な三浦印刷の三浦久司社長からお電話をいただいたのです。三浦社長は、新版画の小林清親のコレクターで、新味三郎さんの展覧会で知り合い、なんどかお会いしていました。

長谷川 この三浦社長からの電話で「蘭花譜の再刷り」の運命が決まったんですね。

大塚 私がいただいた電話で「蘭花譜の版木が見つかりました。再刷りの企画を考えています」とお話ししました。すると三浦社長は即座に、本当に即座に反応して「その再摺り企画、私にやらせて下さい」と言うではありませんか。私は長年日本の企業のメセナ(文化事業支援)や経済人の数寄者を取材してきましたが、三浦さんのように「自分の趣味に合う良い文化事業」に対して、一瞬のうちに決断する経営者は初めてです(次号に続く)。

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。

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