昨年7月、元NHK経済記者で現在は数寄者研究家として活躍している大塚融氏へのインタビューを掲載しましたが、お陰様で多くの方々からご好評をいただきました。今回登場する数寄者は、戦前の大阪で屈指の資産家として名を残した加賀正太郎です。大塚さんは、加賀正太郎が丹精込めて栽培した洋蘭の姿を後世に残すために製作した木版画集「蘭花譜」について熱く語っています。
お話をお聞きした場所は、加賀正太郎が京都府大山崎町の天王山中腹に30年かけて建築した大山崎山荘(現・アサヒビール大山崎山荘美術館)です。大山崎町は京都府の南西にあって大阪府に接している小さな町です。戦国時代に豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が明智光秀を破った山崎の戦いは天王山山麓で行われ、それ以降、多くの人々が勝負の分かれ目を「天王山」と言うようになったのは皆さんご承知のとおりです。
加賀正太郎のプロフィール
長谷川 この大山崎山荘には、今から20年ほど前に大塚さんにご案内いただきました。ちょうど大塚さんが数寄者研究家を名乗り始めた時期です。その後、大塚さんは数寄者研究家として活動を重ねて前回のインタビューでは、その成果として関西を代表する数寄者として9名の方々を挙げられました。そして最も評価している数寄者として和田亮介さんを詳しくご紹介いただきましたが、今回は和田亮介さんに次いで大塚さんが重視している数寄者の加賀正太郎さんについてお聞きします。でも、この東上沿線物語をお読みの方々は、加賀正太郎をご存じない方が多いと思います。最初に加賀正太郎を簡単に紹介してください。
大塚 残念ながら、現在の関西でも加賀正太郎を知っている人は少なくなってしまいました。加賀正太郎は1888(明治21)年1月に大阪船場の高麗橋で加賀家の長男として生まれました。加賀家は江戸時代から続く豪商で、両替商や林業、不動産業、米仲買業など手広く商う加賀商会を経営していました。明治になって大阪株式取引所ができると株式仲買業も営むようになりました。
1900(明治33)年に父親の加賀市太郎が亡くなります。確認が取れていないのですが、その時正太郎は神戸の須磨浦尋常小学校に在学中でしたが、東京株式市場の株式仲買業を営んでいた叔父の加賀富三郎(父の弟)が住む東京に転居し、蛎殻町の水天宮裏にある有馬尋常高等小学校(現・中央区立有馬小学校)に転入したと言われます。その後、東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)を経て東京高等商業学校(現・一橋大学)で学びます。
長谷川 大塚さんは一橋大学を卒業されていますので、正太郎は大先輩ということになりますね。
大塚 確かに大学の大先輩ですが、加賀正太郎は私のような庶民ではなく豪商の跡取り息子ですから暮らし振りが全く違います。東京高商を卒業する前年の1910(明治43)年に、正太郎はロンドンで開催された日英博覧会を見学するという名目で、シベリア鉄道を経由して英国まで卒業旅行に出かけました。英国にたどり着く前に正太郎は欧州各国に立ち寄り、スイスを訪れた際にはヨーロッパアルプス最高峰のユングフラウ(4,158m)に日本人として初登頂しています。英国では、博覧会のほかにロンドン郊外のウィンザー城や王立植物園(キューガーデン)にも足を延ばしましたが、キューガーデンでは栽培されていた洋蘭に非常な感銘を受けました。多分、正太郎は英国で上流階級の個人宅にも訪問し、そこでも洋蘭が栽培されている様子を見たのだと思います。加賀正太郎の生涯を通じた洋蘭栽培は、英国で見た洋蘭が原点です。
翌1911(明治44)年に東京高商を卒業した加賀正太郎は、大阪に戻って加賀商店の経営者になります。正太郎が東京で学校生活を送る間、加賀商店の経営は番頭に肩代わりしてもらい、正太郎が学校を終えるのを待って家業を継がせることになっていたのです。正太郎は東京高商を卒業してすぐに加賀商店の経営者になったことで、その年の多額納税者にリストアップされました。
長谷川 正太郎は若くして家業の経営を引き継いだわけですが、経営者としてはどう評価されているのでしょう。
大塚 正太郎は、もともと家業を継がなければ外交官か科学者になりたかったようですね。正太郎が残した書き物から判断すると、彼の性格は几帳面で彼なりに加賀商店の経営に取り組んだのではないかと想像しています。ただ、加賀商店に関する記録は太平洋戦争の空襲もあってほとんど残されていません。したがって加賀商店の経営状況は、よく分からないのが実情です。
長谷川 加賀商店だけでなく戦前の老舗は、個人商店の色彩が強くて経営実態が分からない先が多いのが普通です。正太郎が家業を引き継いだ大正から昭和にかけての日本社会は、経済の浮き沈みが激しい状況が続きました。冷害が続いて農民が苦境に喘ぎ、職を求めて大都市に流れ込む人々が目立ったのもこの時代です。その中で加賀正太郎は立派な大山崎山荘を造って費用がかかる洋蘭を栽培し、関西の財界人とも幅広く交流していたわけですから、豊かで安定した収入があったと思います。正太郎の収入源は、林業や不動産業などのストックビジネスによるものが大半だったと想像します。
大塚 多分そうでしょう。確かに正太郎は大阪屈指の資産家で、それなりの人脈を築いていたようです。関西の名門ゴルフ場「茨木カンツリー倶楽部」の創立に関わったのも、彼の大阪財界での地位を物語っています。正太郎は山荘の設計と同様に茨木カンツリーのコースも自らの美意識を頼りに設計をし直してます。ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝とも交流があって、竹鶴が事業を立ち上げる際に正太郎は創業資金を拠出しています。10年近く前になりますが、NHKで朝のテレビ小説「マッサン」というドラマが放送されましたが、その中で正太郎らしき人物がチラっと登場しています。正太郎が亡くなったのは1954(昭和29)年です。喉頭ガンが死因で、享年66歳でした。
蘭花譜との出会い
長谷川 その洋蘭の木版画集「蘭花譜」ですが、大塚さんが最初に蘭花譜を見たのはいつですか。
大塚 大阪に転勤した間もない1974(昭和49)年11月ですね。今は無くなってしまった天満橋の松坂屋大阪店で栽培業者による洋蘭展が開催されてNHKの記者として取材に行き、そこで初めて蘭花譜を見ました。洋蘭展の会場には各種の洋蘭と一緒に洋蘭の絵画が沢山展示されていました。私は展示されていた絵画がてっきり肉筆の細密画だと思ったのですが、松坂屋の方から「肉筆ではなく木版画です」と言われて驚きました。よくよく見なければ木版画には見えません。さらに木版画を製作・監修した人物が加賀正太郎という加賀商店の経営者で、彼が洋蘭の絵画をまとめた「蘭花譜」を製作したこともそこで知ったわけです。
前も言ったように、戦前の船場には旦那衆が茶の湯を嗜み、美術品や古典に親しむ文化風土がありました。それを裏で支えた職人たちも船場に住み、中には旦那衆に負けない程の美意識をもっていました。この蘭花譜の取材が切っ掛けになって、私は数寄者の世界に強い関心をもつようになったわけです。
長谷川 私は大塚さんから何度も加賀正太郎と蘭花譜の話しを聞かされていますが、加賀正太郎や「蘭花譜」をご存じない方も多いと思います。正太郎が刊行した「蘭花譜」を簡単に紹介してもらえませんか。
大塚 蘭花譜は、加賀正太郎が京都府大山崎町の天王山山麓に造った大山崎山荘の温室で当時洋蘭の神様と呼ばれていた後藤兼吉の協力を得て栽培した洋蘭を絵師に描かせ、木版画にした画集です。当初、正太郎は蘭花を写真や油絵で写し取ろうとして作業したのですが、当時の西欧の印刷技術に比べ日本の技術は見劣りすることから伝統的な浮世絵版画の技法を駆使した木版画に切り替えました。
木版画の下絵は日本画家の池田瑞月が描き、木版画の彫師は東京の大倉半兵衛と京都の菊田幸次郎、摺師は東京の新味三郎と京都の上杉桂一郎を中心とした大岩雅泉堂、手漉きの和紙は福井今立の岩野市兵衛という当時超一流とされた職人たちが担いました。私が大阪に赴任して興味をもった職人、それも第一級の木版画職人が力を合わせて作り上げた木版画集の傑作でしょう。
蘭花譜に収録した洋蘭は、加賀正太郎が人工交配で作り出した洋蘭1,140種の中から選んだ104点で、そのうち83点が木版画で、残り21点は白黒写真または油絵などの西洋印刷技術で写し取られています。一連の作業は戦争中に終了したのですが、敗戦でもはや第2輯の刊行はできないと判断して、敗戦から4か月後の1946(昭和21)年1月に急遽バラの状態で木箱に納められた300セットが出来上がりました。
当初はそのうち100セットを海外の大学・植物園に寄贈する予定でしたが、敗戦後の日本の経済的混乱で寄贈もできないまま300セットすべてが国内の研究者や愛好家向けに販売されました。蘭花譜に納められた蘭画は、正太郎が栽培した洋蘭を正確に映し残すため西洋のボタニカルアートの技法で描くよう絵師の瑞月に徹しく言いつけたようです。
弟慶之助さんの話
長谷川 大塚さんが加賀正太郎を本格的に取材するようになったのはいつ頃でしたか。
大塚 蘭花譜を最初に見てから数年たったところで私は体調を崩してしまい、長谷川君も知っているようにNHKの人事異動で報道用の各種資料を管理する資料室に移りました。でも、この異動が幸いして加賀正太郎と再会することになったのです。
資料室に着任してまもなく芦屋の資産家から寄贈された戦前の映画フィルムを見ていたら、初代桂春団治が落語をかたっている大変珍しいシーンがありました。初代春団治の写真はほとんど残されていないことを知ってましたので、すぐにテレビの全国ニュースで放送しました。1985(昭和60)年のことです。案の定、ニュースは大変な反響を呼んでニュースを見た大阪の老舗和菓子屋のご主人から、「出来ればそのフィルムを私の知っている人に見せてやってくれないか」と言われ、ご案内いただいたのが正太郎の弟さん加賀慶之助さんのお宅でした。
慶之助さんのお宅は、大山崎山荘のトンネルを抜けた左側にあって、山小屋のような良い雰囲気の建物でした。慶之助さんとご一緒にフィルムを見ながらいろいろ話していますと、慶之助さんが「昔、ここは『蘭屋敷』と言われましてね」と言われたのでエッと思いました。
正直言ってその時私は、加賀正太郎よりも洋蘭のほうに興味があったので「蘭屋敷」という言葉に引き付けられて、「蘭屋敷」の意味をお聞きしたつもりだったのです。でも慶之助さんは、大山崎山荘で兄の正太郎が洋蘭を一万鉢栽培していたとか、ニッカウイスキーの基になった旧大日本果汁の創立にも関わったとか加賀正太郎のお話をしきりに話されました。お兄さんを余程尊敬されてたのでしょうね。慶之助さんのお話で、連れてこられたこの場所が大山崎山荘であることを知り、私は加賀正太郎という人物の一端を掴んだような気持になりました。それから本格的な取材活動を取り組んだというわけです。
長谷川 一連の取材活動はNHKの仕事として行ったのでしょうか。
大塚 加賀正太郎に関する一連の取材はあくまでも私の個人的なものです。NHKとは全然関係ありません。当然、取材費用は全て自前です。加賀正太郎に関する古書を買ったり、彼の足跡を調べるために外国まで出かけたり、まとめると結構な額になったと思いますよ。
長谷川 大塚さんがその様な金持ちだったとは知りませんでした。
大塚 金持ちである訳ないじゃないか。(突然大阪ことばで)海外取材を何とかしてくれたのはオカアチャン(妻・大塚知子さんのこと)や。全てオカアチャンのお陰や。
長谷川 大塚さんが何度も海外旅行されているのはよく知っていますが、加賀正太郎の足跡を尋ねる取材を兼ねていたというのは初めてお聞きしました。長期にわたる加賀正太郎の取材活動を通じて特に印象に残ったのは、どういうことですか。
大塚 1946(昭和21)年に正太郎が「蘭花譜」を世に送り出すときに序文を書いているのだけれども、私はその序文を読んで驚いた。名文中の名文です。これほど素晴らしい文章を書く財界人を他に知りません。頭脳明晰でかつ緻密な神経をもつ人が書いた緊張感のある文章だね。それと同時に驚かされたのは正太郎の美的センス。加賀正太郎の美的センスがこの大山崎山荘に集約されていると思うね。(次号に続く)
長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。