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荒川(旧荒川放水路)と隅田川(旧荒川)を望む絶景スポット  岩淵水門 

赤羽駅から徒歩約20分、東京都北区志茂の荒川河川敷は、驚きのスポットだ。ここで荒川(旧荒川放水路)と隅田川(旧荒川)が分岐する。川の中には旧岩淵水門(赤水門)と新岩淵水門(青水門)の色鮮やかな2つの水門が立ち、雄大で不思議な風景が展開している。この構図は、荒川の治水対策としての、荒川放水路(現荒川下流部)の建設という歴史的大事業の結果として生まれた。荒川上流部と新河岸川に挟まれた岬のような地点に、国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所・荒川知水資料館(アモア=amoa)が建つ。
荒川の歴史と、荒川放水路、水門の役割などについて、同事務所の吉田康博さんと小林丘明さんにご説明いただいた。

周辺図(荒川上流河川事務所ホームページより)

知水資料館

荒ぶる川

荒川の水源は長野山梨埼玉3県またがる標高2475m甲武信ケ岳です。荒川は、江戸時代は利根川と合流していましたが、徳川家康が利根川を東遷、同時期に荒川を西遷しました。今の荒川は、東京湾に注ぐまで、延長173キロの河川です。

荒川は支川が127あり、雨が流れ込む流域面積は2940平方キロに及びます。平地部が長く、よどみやすく、たびたび洪水が起きました。「荒ぶる川」から名がついたとも言われています。

荒川、隅田川が分岐

ここ志茂は、河口から20キロに位置します。川はこの辺りから二つに分かれ、下(西側)が隅田川、上(東側)が現在の荒川の本流です。この隅田川が昔の荒川でした。たびたび洪水があったので治水対策として、幅500メートル、延長22キロの荒川放水路が開削された。それを現在は荒川と呼んでいるわけです。

旧岩淵水門

荒川の分岐点、右が新しい岩淵水門

隅田川に向かう水量調節のため建設されたのが岩淵水門です。旧岩淵水門(赤水門)は大正13年に建設、老朽化や河川の計画変更の関係で、新しい水門(青水門)を昭和57年に建設しました。

荒川の支流の一つである新河岸川も、現在は岩淵水門のところで、隅田川と合流しています。以前は、もう少し上流で合流していたようです。

新河岸川(奥が隅田川)

荒川放水路

旧荒川(現在の隅田川)は、洪水を防ぐために、江戸時代は日本堤と隅田堤という2つの堤で治水対策をしていました。雨水を絞り込んで一定量しか流さないように、じょうろの役割をもたせたわけです。しかし、上流の方は氾濫し水浸しになります。明治40年余りの間に10回以上洪水が起きました。特に明治43年の大洪水では、東京の下町で浸水家屋27万戸、被災者150万人の大きな被害が出ました。

これを受けて、荒川放水路という人工の河川を掘ろうという計画が立てられます。旧荒川の拡幅も含めて複数のルートが検討されましたが、比較的直線で、500m幅の現在の川筋に決まりました。なるべく直線にしましたが、北千住という宿場町はつぶさないで迂回するなどの配慮もされました。

放水路計画図(荒川下流河川事務所ホームページ)

明治43年の大洪水の翌年に事業計画が策定され、明治44年には用地買収、大正2年には掘削工事が始まりました。掘削は、河川敷までは人や馬の力で行い、掘った土は堤防を盛るのに用いました。人が掘れない部分は蒸気掘削機を使い、さらに深いところは一度通水、水を張って、浚渫船という船で工事。明治44年から昭和5年まで19年間という長い年月をかけて完成しました。

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岩淵水門

問題は、古い荒川(隅田川)に多量の水を流さないようにすることで、水門で調節する必要がありました。そのためにできたのが旧岩淵水門です。旧水門は大正13年(1924年)に完成、建設当時は隅田川に流入する量を830トン以下に調整していました。

岩淵水門の設計施工にあたったのが、当荒川下流河川事務所の3代目事務所長であった青山士(あきら)です。青山は、パナマ運河建設に日本人でただ一人従事した方。帰国し内務省に入り、技術を生かし旧岩淵水門建設に関わり、当時あまりなかったコンクリート製、下を20m掘って基礎を固める形の水門を作りました。完成直前の大正12年の関東大震災でもビクともしなかったそうです。

青山士 (amoa展示)

旧水門完成時には、当時摂政であられた昭和天皇が通水の様子をご覧になられました。新しい水門(青水門)を昭和57年に建設してからは、旧水門(赤水門)は歴史的遺産として保存され、近代産業遺産にも指定されています。

当資料館では、青山士の足跡をたどる企画展を5月末から開催する予定です。

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